はじめに
国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチ(以下「HRW」、本部ニューヨーク、1978年設立)は、100か国以上の人権状況を国際人権法および国際人道法に照らして継続的にモニタリングし、毎年約80冊の調査報告書を公表するとともに各国政府等へ是正を求めるアドボカシーを行っている。
私は2000年から東京で弁護士業を始め、米国留学を経て2009年にHRW東京オフィスを立ち上げ、日本代表として活動している。
HRWは、後述の調査報告書を公表した後、同政策提言の実現を目指し、イノセンス・プロジェクト・ジャパン(以下、「IPJ」)と共同で「ひとごとじゃないよ!人質司法」プロジェクトを展開してきた。
また、本報告書では、身体拘束と取調べでの人権侵害について取り上げた。そこで本稿では、「人質司法」を、身体拘束のみならず、被疑者・被告人に対する国際人権基準に反する身体拘束と取り調べという意味で使う。
調査報告書の発表
HRWが2023年5月、約3年間の調査を経て、英語・日本語で発表したのが、「日本の『人質司法』 保釈の否定、自白の強要、不十分な弁護士アクセス」(全86頁)である(末尾を参照)。日本各地の、元被疑者などの当事者30名、専門家や当事者家族など26名からの聞き取りインタビューをもとにしている。
本報告書は、長期身体拘束を前提とする勾留と否認・黙秘を理由に保釈が極めて限定される実務、こうした身体拘束下で弁護人立会いを欠いたまま続く長時間の取調べによる自白強要、接見禁止や勾留中の処遇の問題を示し、日本の未決段階の刑事司法が、国際機関等からの度重なる勧告等にもかかわらず国際人権法や国際的な人権基準に違反し続けている実態を明らかにするとともに、国際人権法違反を是正するための具体的な法制度改正を提言する内容だ。
「人質司法」に取り組む原点
「人質司法」報告書は、私にとって特に思い入れが深い。
弁護士になってすぐに、痴漢えん罪事件を偶然に共同受任した。幾度となく痴漢被害を経験したことから、当初は複雑な思いもあったが、被疑者と接見し、長期勾留の過酷さを目の当たりにした。ある朝突然、満員電車で女子高生から痴漢と間違えられたものの、「警察にしっかり説明すればすぐ釈放される」と信じていた被疑者の、会社員K氏(幼い子ども2人を抱える父親でもあった)は、接見のたびにすっかり消耗し、絶望していった。保釈は被害者尋問終了までの約三か月間、認められなかった。
その後執行猶予付きの有罪となったK氏の苦悩は、駆け出し弁護士だった私に刑事訴訟法の理念と実務の乖離、虚偽でも自白しないかぎり身体拘束が続く「人質司法」の不正義と残酷さを強く刻んだ。
政策提言のアドボカシー:
イノセンス・プロジェクト・ジャパンとの共同プロジェクト
報告書で具体的な制度改革を提言したが、報告書公表のみで法務省が制度改正に踏み出すとは考え難い。そこでHRWは2023年6月、IPJと共同し、「人質司法」を終わらせることを目的とする「ひとごとじゃないよ!人質司法」プロジェクトを開始した。
本プロジェクトは、HRW報告書内の政策提言実現に向け、政府・国会への制度改正の働きかけと、社会への実態周知による世論喚起を並行して進める枠組みである。同月にはその第一歩として、大阪で立ち上げイベント「人質司法を考える」を開催した。なお、プロジェクト名は、日本を代表するコピーライターのおひとりで電通のクリエイティブ・ディレクター橋口幸生氏が、広く市民の当事者意識を高めることを目指し、プロボノで考案してくださった。
以下はほとんどが、「ひとごとじゃないよ!人質司法プロジェクト」としての活動である。
- 法務省へのアドボカシー
これまでHRWは、日本の人権状況報告を発表するたびに、関係省庁を訪問し、提言趣旨を直接説明することをアドボカシーの第一歩としてきた。省庁から面会を断られることはあまりなく、近年はNGOとの対話や協働も行政業務の一環として受け止められていると感じる。
他方、本報告書の発表に際しては法務省刑事局との面会の設定から難航した。面会依頼を送付したものの、「調査結果に関する見解を責任をもって回答することは困難であり、対応いたしかねます。」との返信に留まった。その数か月後、つてをたどって検察庁関連のある有力な方のお口添えをいただいたために、面会そのものは一度実現したが、継続対話に至っていない。
あくまで他省庁そして法務省関連の他事項のアドボカシーを比較した個人的な感想だが、面会を終えた後も、官僚の方々と話し合って何か少しでも変化が生まれうるというレベルをはるかに超えているという感覚を持たざるをえなかった。人質司法については、法務省内で既に検討し尽くされており、ウェブサイトでもQ&Aの形で詳細な反論がされているのであり、官僚の方々の回答は(当然ながら)その線に沿ったものであった。回答としても制度としても固定されており、内側から変わる可能性が全く感じられなかった。国会で法律を変える、裁判所が解釈を変える、世論が沸騰して内部からの変更を迫ることになるなど、何らかの外部からの強烈な力が働かない限りこの制度は変わらないという感触を持たざるを得なかった。
面会設定さえ非常に困難であることや被疑者の拘禁・取り調べのあり方を検討する法務省の会議体の閉鎖性も他省庁等の会議体と比べて際立っていることに表れているように、法務省刑事局の閉鎖性は際立っており、これは「人質司法」が改善しない一因であろう。
- 国会へのアドボカシー
法務省刑事局とは対話自体も困難であったことから、「ひとごとじゃないよ!人質司法」プロジェクトでは、行政への政策提言には限界があると判断し、国会へのアドボカシーを重要な柱とした。HRWとIPJは、プロジェクト開始後約2年半で、与野党の枠を超えた約60名の国会議員と個別に面会し、「人質司法」の実態と報告書の提言内容を直接説明し、制度見直しを提言してきた。こうした対話を通じて国会での議論喚起と政策提言の具体化を目指している。
また、議員会館内でのいわゆる院内集会の開催を重視し、2023年度以降毎年度「人質司法サバイバー国会」を開催している。2023年11月に開催された第一回では、郵便不正事件の村木厚子氏とプレサンス・コーポレーション事件の山岸忍氏をはじめ、23名の人質司法サバイバーの当事者と家族がスピーチを行い、人質司法の経験を訴えた。会場には、国会議員8名(さらにメッセージを寄せてくださった国会議員4名)を含む190人が集まった。
2025年3月に開催された第二回のタイトルは「袴田事件『後』司法はどう変わるべきか?」。基調スピーチに袴田ひで子氏をお迎えし、袴田事件発生から60年続く「人質司法」被害の実態を伝えた。さらに、人質司法が日本経済に与える影響にも焦点を当て、登壇者23名と国会議員17名を含む約220人が集まった。国会議員からは多くの前向きな声が届けられた。
袴田事件は、「人質司法」にまつわる人権侵害を浮き彫りにする象徴的な事例でもある。袴田巌氏は否認を続けながら拘束下の厳しい取調べで逮捕20日後に自白に追い込まれ、起訴後は撤回したが自白調書1通が採用され、自白事件として1968年に死刑判決が言い渡された。2024年の再審無罪判決は当該自白を非人道的取調べによるとして排除した。
国会議員からは、たとえば、柴山昌彦衆議院議員(自由民主党)は「刑事法改正の実現に向けて、たゆまず活動を続けていく」とし、稲田朋美衆議院議員(自由民主党)は、「人質司法には様々な問題が存在している」としたうえで「「弁護人の立合いを含め、捜査の初期段階から改善していくことが、冤罪を防ぐための肝要な手立てになるのではないか」と述べた。伊藤孝江参議院議員(公明党)は、自身の弁護士の経験に触れながら、「『人質司法』がいかに多くの課題を抱えているか、また、それがどれほど根本的な問題であるかを痛感しました。冤罪を生む大きな要因の一つが人質司法であることは、疑いのない事実であると確信しています」とした。
2026年3月に開催された第三回のタイトルは「大川原化工機事件『後』司法はどう変わるべきか?」。大川原化工機の大川原正明社長、島田順司氏、相嶋静夫氏ご長男による基調スピーチをはじめ、「家族と人質司法」および「ビジネスと人質司法」をテーマに、登壇者26名、国会議員14名(さらにメッセージを寄せてくださった国会議員4名)を含む約160人が集まった。人質司法被害者の家族という立場から登壇いただいた鈴木貴子衆議院議員(自由民主党)は、その経験を「まさに生き地獄であった」と訴えるとともに、「今この瞬間もその中に落とされている方がいると思うと、何としても…再審法の改正(を通して)法律でしっかりと担保しないといけない」と述べた。古庄玄知参議院議員(自由民主党)は、大川原化工機事件および自身の弁護士としての経験から、繰り返される保釈請求の却下について、検察に加え、「それを追認、黙認してきた裁判所に大きな責任がある」とした。三木圭恵衆議院議員(日本維新の会)は、逃亡の恐れや証拠隠滅の恐れがないと思われる場合でも勾留が続くことに触れ、これを「しっかりと人権問題として捉えて解決していくことが大切だ」と述べた。
国会議員による「人質司法」関連の国会質問も増えたことから、国会質問や新聞社説等を整理したデータベースをプロジェクトのウェブサイト上で公開している。
また、2025年3月には衆議院法務委員会で刑事司法制度に関する参考人質疑が行われ、「人質司法」被害者である大川原化工機事件の島田順司氏、郵便不正事件の村木厚子氏に加え、論文「『罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由』について」を公表直後であった元裁判官の藤井敏明氏が意見陳述を行い、被害者や元裁判官の声を国会に直接届ける重要な機会となった。
また、2025年9月には公明党が、大川原化工機事件について第三者による独立した再検証を法務省や警察庁に要求した。これは当事者らが同党議員と継続的に面会し、問題点と検証の不十分さを訴えてきた結果である。
- 最高裁へのアドボカシー
最高裁については、2023年5月の調査報告書公表直後に法務省と同様の面会申入れを行ったが実現しなかった。HRWとIPJは2025年10月、2026年1月開催予定と報じられた最高裁主催の裁判官向けの保釈のあり方に関する研修会について、その開催自体は歓迎する一方で、被害当事者、特に、研修会開催のきっかけだと報道された大川原化工機事件の被害当事者からのヒアリング実施が必要だと求め、併せて面会も要請した。しかし残念ながら、最高裁は面会を受け入れず、研修会で当事者の経験が共有された事実も確認されていない。
- 経済界・国際社会への働きかけ
「ひとごとじゃないよ!人質司法」は経済界や国際社会にも働きかけてきた。カルロス・ゴーン氏(元ルノー会長、日産自動車・三菱自動車会長・社長)の金融商品取引法違反の疑いでの逮捕と、それに続く108日間、さらに21日間の勾留による国際的評価の低下に加え、企業犯罪が組織犯罪扱いされて長期拘束や接見禁止が生じやすいことから、防御準備の困難や逮捕直後から企業に重大な損害が及ぶ実態を示し、経済界の課題として是正への関与を促している。
また、日本政府の改革が遅い現状を踏まえ、国際社会からの関心と働きかけも不可欠と考え、各国大使館職員との面会や勉強会で情報発信を継続してきた。外国人は言語や在留資格の制約により一層不利な状況に置かれ得るため、普遍的な人権の問題としてはもちろん、在日自国民の人権保護の観点からも関与を求めている。さらに、アジア・ソサエティ主催の英語イベント “Guilty Until Proven Innocent” では、「人質司法」被害者の島田順司氏(大川原化工機事件)、マーク・カバゾス氏(覚醒剤取締法違反の疑いで6か月身体拘束、のちに無罪)が実態を訴えた。
メディアへのアウトリーチ、世論への働きかけ
「ひとごとじゃないよ!人質司法」プロジェクトは、改革を支えるのは世論、世論喚起にはメディアが不可欠との認識から、記者たちに積極的なアウトリーチを実施してきた。
たとえば、東京の司法記者クラブではこれまで3度の会見を開催した。2024年3月の「人質司法と刑事施設医療」会見は、大川原化工機・相嶋静夫氏胃がん死亡事案の国賠判決を前に実施し、相嶋氏のご遺族や、別の事件で長期勾留中に膵臓がんを悪化させその後死亡した税理士・中村一三氏の妻が、保釈却下の苦しみや勾留中の不十分な医療について証言、龍谷大学の赤池一将教授が刑事施設医療の問題点を解説した。
2024年10月の「袴田事件と『人質司法』の関係性」会見では、前月の袴田巌氏の再審無罪判決を受け、えん罪の要因は、長年注目を浴びてきた証拠の捏造だけでなく、「人質司法」にもあると伝えた。
新聞広告も展開してきた。「ひとごとじゃないよ!人質司法」プロジェクト名の生みの親であるコピーライター橋口幸生氏の提案で、10月2日「世界えん罪の日」に合わせ、2023年から3年連続掲出している。日本を代表するクリエイターのおひとりで電通のアートディレクターである岩下智氏らがプロボノでデザインしてくれた。昨年は、2025年10月2日付中日新聞東海本社版朝刊に、大川原化工機事件を題材とした見開きカラー広告を掲載し、キャッチコピーは「この国では、えん罪も成果になる。」と構造的問題を提示した。他媒体やSNSにも波及し、クリエイティブ業界にも注目されるなど、大きな反響を得た。2023年作「真実は、曲げられる」はACC TOKYO CREATIVITY AWARDSで2024年にブロンズ賞を受賞した。
「人質司法サバイバー」たちとの連携
HRW報告書作成時からアドボカシー各段階を通じて一貫した柱は、「人質司法」を実際に経験した被害者―「人質司法サバイバー」―との連携である。サバイバーが受けた理不尽で過酷な人権侵害こそ世論と政策を動かす原動力である。
「ひとごとじゃないよ!人質司法」プロジェクトのウェブサイトでは乳児が死亡した責任を不当に問われた高津光希氏、先述の山岸忍氏、村木厚子氏、故・相嶋静夫氏、犯人隠避教唆の疑いで身体拘束された江口大和氏たちの事例を継続発信してきた。議員会館で毎年開催する「人質司法サバイバー国会」でも当事者が議員や社会に直接証言している。
さらに、国を相手取る訴訟に踏み出した当事者と弁護団に深い敬意を抱く。裁判官の憲法違反および国際人権法違反の保釈却下を別の裁判官が断罪しにくい構造の下、長く存在しなかった訴訟の沈黙を破ったのが、2024年6月提起の角川継彦氏「人質司法違憲訴訟」、続く2025年3月の初の集団訴訟「人質司法に終止符を!訴訟」である。覚悟をもって立ち上がったサバイバーの声こそ改革を前進させる。プロジェクトは人質司法サバイバーらと共に、「人質司法」解消に向けて粘り強く取り組む。
まとめ
以上、近年の「人質司法」をめぐる動きのうち、制度改正に向けたアドボカシーについて述べた。HRWは2009年の東京オフィス開設以来、社会的養護における施設収容、LGBTの人権、刑務所、スポーツにおける体罰など、日本について複数の報告書を発表し、一定の制度改正につなげてきた。そうした経験と比較しても、過去3年間の「人質司法」アドボカシーには特異性を感じる。うち2つについて私見を述べる。
第1は、所管が法務省、とりわけ刑事局である点だ。他の省庁の多くでは、若くして入省した官僚が後に立法を担い、現場の利害から一定の距離を保ちながら多様な声を踏まえ政策を立案する。これに対し法務省では、入省組は高官になれないのが原則で、幹部の多くを検察官出身者が占める。とりわけ刑事局では、刑事訴訟の一当事者である検察官が、刑事法の法案作成や制度設計を担うという構造的な利益相反がある。結果として、捜査権限を制約する制度改革は生まれにくい。加えて、市民社会やメディアへの閉鎖性、審議会等の透明性の低さ、検察によるメディアへの「出禁」の委縮効果など、他省庁には見られない抑制要因もある。法務省の制度改革自体が必要であろう。
第二は、立法府の機能不全である。行政が自ら改革しないなら、「国権の最高機関」たる国会が法改正等で是正すべきだ。実際に多くの社会問題が、国会議員のリーダーシップによって改善している。
しかし、「人質司法」について国会は十分に役割を果たしてこなかった。怠慢の側面は否めないが、背景には検察・警察の強大すぎる権限がある。逮捕・勾留・長時間の密室取調べという権力の中枢に切り込めば、報復的に捜査対象とされるのではという懸念から矛先が鈍りがちになるのも否定できない。実際に、有力な国会議員を含め多くの政治家が特捜や警察の捜査対象となり逮捕勾留されてきているし、特捜の描いた犯罪の「絵」が事実無根だったが、それが判明するまでに長い身体拘束を余儀なくされた事案も多い。
有力政治家などの権力者も捜査対象とする姿勢は健全だが、日本は「人質司法」である。裁判を受ける前の逮捕・勾留段階で社会的生命、政治生命が断たれることも多いうえに、逮捕・勾留中の裁判準備は困難を極め、自分を十分に防御することはほぼ不可能だ。結果として、「人質司法」については有力な政治家がリーダーシップを発揮することは困難で、だから制度も変わらないという悪循環が続く。
これを断ち切るには、使命感ある政治家の勇気と、それを支える世論が必要だ。NGO、メディア、市民が声を上げ、政治家に行動を求めるとともに、これに応えて行動する政治家を支援し続けなくてはならない。
HRW報告書冒頭の郷原信郎弁護士(元検察官)の言葉で締めたい。「検察官の要求に応じるまで、基本的にあなたは人質にされているのです。これは、健全な社会における刑事司法制度のあるまじき姿です。」日本の次世代のため、そして日本が「国際社会で、名誉ある地位を占め」るためにも、「人質司法」を解消しなくてはならない。