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 (トリポリ)-強力なカダフィ軍部隊の1つで、カダフィ氏の息子カミスが率いるカミス部隊が、2011年8月23日、トリポリ近くの倉庫に拘禁していた人びとを冷酷に処刑したと見られる、とヒューマン・ライツ・ウォッチは本日述べた。虐殺から3日を経ずに、同倉庫では原因不明の火災が発生した。

 ヒューマン・ライツ・ウォッチは8月27日、白骨化し、まだ煙がくすぶっていた約45人の遺体を調査。トリポリの南、サラハディン市内のカーリダ・フェルジャン地区のヤルモウク軍事基地に隣接する倉庫内に、遺体は散在していた。倉庫外にも少なくとも2体の焼かれていない遺体が横たわっていた。

 「遺憾ながら、カダフィ政権の崩壊直前に拘禁中の人びとが冷血に処刑されたという情報はこれが初めてではない。ラマダン真最中に行われた無慈悲な大量殺人の責任者は、厳しく裁かれ処罰されなければならない」とヒューマン・ライツ・ウォッチの中東・北アフリカ局長サラ・リー・ウィットソンは語る。

 ヒューマン・ライツ・ウォッチの聞き取り調査に応じた生存者の一人は、刑務所として使われていたこの倉庫の守衛たちが、虐殺が行われた日、153人の被拘禁者の名前を点呼した、と話している。その生存者によれば、虐殺現場から20人が脱出したとみられ、153人の被拘禁者のうち約125人は民間人だった模様である。倉庫のある敷地内の建物に、カミス旅団の構成部隊を示す“第32旅団”とスプレーされているのを、ヒューマン・ライツ・ウォッチは確認している。

 ヒューマン・ライツ・ウォッチは、銃撃と手榴弾による虐殺を生き延びたと言う男性1人から話を聞いたほか、他3人――8月10日頃まで倉庫内で拘束されていたと言う男性、8月23日に銃声と手榴弾の爆発音を聞いた近隣住民、そして8月26日に虐殺現場にリビア国民評議会(以下NTC)軍が初めて入った際に遺体を発見した国民評議会軍兵士――の人びとからも聞き取り調査を行った。この倉庫に拘禁されていた証言者2人は異口同音に、「自分達は反政府軍を支援していると疑われた民間人で、刑事訴追手続きを受けることなく拘束された」と話した。

 虐殺を生き延びたアブダルラヒム・イブラヒム・バシル(25歳)は、8月23日の日没、カミス旅団の守衛たちがアブダルラヒム自身を含む拘束中の人びとに対し、屋根から銃撃を加えると同時にもう1人の守衛が入口から複数の手榴弾を投げた、と話した。守衛たちが銃に弾込めをしている間に、彼は壁を乗り越え脱出して生き延びた。

 アブダルラヒムと一緒にその倉庫に拘禁されたことがあるモイアヤド・アブ・グフライム(28歳)は、個別にヒューマン・ライツ・ウォッチの聞き取り調査を受けたが、ふたりとも異口同音に、倉庫を監督していた指揮官はカミス旅団のムハマド・マンソウルだったと話した。ただし、実際に彼を見た事はない、という。

 アブダルラヒムは、「カミス旅団に3ヶ月間拘禁されていた」と話す。カミス旅団は彼を“革命派の1人”であると非難して故郷のガダミスで拘束した、という。アブダルラヒムは、名字不明のアブダルサラムとフセインという名のズリタン出身の兄弟と一緒に倉庫脱出を図った、という。彼自身は怪我もなく脱出に成功したものの、アブダルサラム・フセイン兄弟は、守衛に発砲されて負傷し、その後フセインは死亡した、という。

 アブダルラヒムによるヒューマン・ライツ・ウォッチへの証言

 「4人の兵士が倉庫の屋根に上り、もう1人がドアを開けた。兵士は金属の薄い板で出来ている屋根越しに私達を撃って来た。ドア付近にいた兵士は手榴弾を投げて来た。私は弾丸が飛び交うのを目撃し、人びとがアラー・アクバル(神は偉大なり)と叫ぶのも聞いた。[8人の人びとが]倒れるのも見た。[兵士が]弾を詰め直している間に、私はドアを駆け抜けて壁を飛び越えた。幸いにも、怪我はしなかった。間違いなく彼らが、私達を撃って殺したんだ・・・」

 「脱出後、私は1人の兵士が軽傷の人びとを殺して回っているのを見た。軍服のズボンを履き、上着は民間人の服装だったこの兵士は、彼らの息の根を止めることに没頭していた。この兵士はタジョーウラ出身のブラヒムと言う男で、私たちを担当する守衛だった。8月23日に脱出した後、私は3日間倉庫の敷地外の一軒家に隠れていたが、その間守衛たちがまだそこにいるのを見た。共に脱出した兄弟は二人とも怪我をしていて、[反政府軍は]ズリタン出身のアブダラサラムを[一軒家に着いてから3日後に]病院に運んだが、フセインは俺の腕の中で死んだ。彼の遺体はその家に残してきた。[その倉庫は]反政府軍が来た時には既に燃えていたが、私は火災の原因を目撃してはいない。黒い煙が出ているのを見ただけだ。そして私は昨日[8月26日]の日暮れ頃にそこを離れた。」

 ヒューマン・ライツ・ウォッチは8月27日、焼け落ちた倉庫の灰や識別不可能な残骸の中に、約45人の遺体を数えると共に、倉庫の屋根に銃弾によるとみられる穴が複数開いているのも確認した。ヒューマン・ライツ・ウォッチがこの倉庫跡を訪問した際には、倉庫内の1、2ヶ所でまだ煙が立ち上っている状態だった。

 さらに、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、8月26日にサラハディンにあるヤルモウク軍事基地をNTC軍が占拠した時、所属する旅団の同僚とともに煙の出ている倉庫を発見したと言う反政府派の兵士から聞き取り調査を行った。その兵士は、所属する旅団が正午頃その基地に入って中を見回った際に「煙の臭いでわかった」と話した。

 ヒューマン・ライツ・ウォッチは、火災の原因やその責任者を特定するのに十分な証拠は入手出来なかった。

 この倉庫に拘禁された後、8月10日にトリポリ付近のもう一つの収容施設に移されたモイアヤドによると、この倉庫には常に60人から80人の人びとが拘束されていたそうである。守衛たちは被拘禁者にほとんど食糧を与えず、夏の猛暑にもかかわらず水の摂取を1日1人1リットルに制限し、トイレはなかった。

 「36時間食糧も水も無しという時もあった。その後、1人たった1本のキュウリで1日を持ち堪える日もあり、全員で皿一杯のほとんど生のパスタを分け合って食べる日もあった。そんな時は、1人につきスプーン5杯しか食べられない量だった。あれは犬の食事にもならない」と、モイアヤドはヒューマン・ライツ・ウォッチに語った。

 また、守衛たちは、庭の小さなトラックの荷台を留置場に仕立て、そこにモイアヤド他6人の被拘禁者を6日間拘禁した、という。

 倉庫の近くに住み、医療教育を受けた経験を持つある地元住民は、8月23日に銃声と爆発音を聞いたと話している。彼は、周辺住民たちから、怪我人を助けてほしいと頼まれた、という。

 その男性(匿名を希望)は、「先週の水曜日、夕方の祈りの後、激しい銃声と手榴弾の爆発音が聞こえ、その後音一つ聞こえなくなった。夜に近所の人が、銃撃で怪我をした人びとを助けるように頼んで来た。私は病院に連れて行くように言ったが、[近所の人たちは]病院に連れて行くのを怖がったため、怪我人を[近所の人の家に]かくまった。」と話した。

 彼は、ヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、「カダフィ軍は、このヤルモウク軍事基地の近隣地域を、5月初旬頃から使い始めた」と語った。彼によると、被拘禁者が収容されていた倉庫は以前農業用の施設だったそうだ。

 武装紛争時に適用される国際人道法の下では、生命と人びとに対する暴力、特に民間人及び被拘禁者などの非戦闘員の殺害は固く禁じられ、そうした行為は戦争犯罪となりうる。この禁止規定は、国際的紛争、非国際的紛争にかかわりなく適用される。また、民間人に対する広範囲又は組織的攻撃の一部として殺人が行われた場合には、人道に対する罪となる。被拘禁者の処刑政策などは、こうした政策の一環としての民間人攻撃とみなされうる。

 この倉庫に拘禁されていた前出の男性2人が、この虐殺事件で殺害されたと見られる被拘禁者の氏名の一部を特定している。以下のとおりである。

Abdulrahim, Souk el-Juma

Muhammad, Zawiya

Ramadan Zreig, Zlitan

Tassir al-Tini, Ghadames(おおよそ33歳か34歳)

Baher al-Tini, Ghadames(おおよそ33歳か34歳)

Muhammad el-Lafi, Zawiya

Osama el-Lafi, Zawiya

Walid Sagar, Zawiya

 

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