Portraits of Khmer Rouge victims are seen on display at the Tuol Sleng genocide museum, which served as an interrogation and torture center in Phnom Penh during the regime. 

2008 Reuters

(ニューヨーク)-ポル・ポト政権が崩壊して30周年になるが、カンボジアの不処罰文化は依然として根強い、とヒューマン・ライツ・ウォッチは本日述べた。ポル・ポト政権の高官やポル・ポト政権時代の2百万ともいわれる人びとの犠牲に最も責任がある者を裁くため、国連の支援を受けて設立された法廷を、フン・セン政権は妨害し続けている。

法廷が活動を開始してから3年以上が経過し、概算5000万ドルが使われたにもかかわらず、ポル・ポト政権の責任追及のために設立されたカンボジア特別法廷は、公判を開廷できないままだ。

「30年が経過してなお、20世紀における最も残忍な政権が犯した犯罪に対して、誰一人、法の下、処罰されていない」と、ヒューマン・ライツ・ウォッチのアジア局長ブラッド・アダムスは述べた。「これは偶然ではない。当初、10年以上にわたり、中国と米国が、責任追及の努力を妨害した。そして、この10年は、フン・セン首相が、法の正義の実現を阻止するため、ありとあらゆる事を行ってきた。」

カンボジア特別法廷は、計画段階にも実行段階でも、大きな欠陥があった。国連の報告書は、カンボジアの司法制度が独立性にも、能力にも、プロ意識にも欠けると結論付けたにも拘わらず、ポル・ポト派の元司令官たるフン・セン首相の強い要求の結果、カンボジア人裁判官とカンボジア人「共同検事」及び「共同捜査判事」が過半数を占める構成となった。国連は、この構成に反対していた。

検事及び捜査判事が実際に行なった捜査は、非常に限られていた。また、特別法廷は、カンボジア人職員間の裏口採用や贈収賄などの汚職疑惑にまみれてしまった。

フン・セン首相が逮捕を了解した5名のポル・ポト派指導者らが拘束されてはいるが、ポル・ポト政権下で行われた恐るべき犯罪に関与した多くの者は、未だ起訴もされていない。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、既に起訴されている5名以外に捜査対象を広げるよう求めている。

本日、特別法廷は声明を発表し、その中で、カンボジア人共同検事は、追加起訴に反対した。国際共同検事は、特別法廷への申立書の中で、追加起訴は同法廷の裁判権管轄の及ぶ範囲内であり、かつ、「過去に犯された犯罪に関するより広い全容解明に資する」と主張。もっともである。しかし、カンボジア人共同検事は、政治的及び政策的理由から、「過去におけるカンボジア不安定と、引き続く国民和解への必要性」に言及して、追加起訴に反対した。

「カンボジアをよく知る人で、ポル・ポト政権の殺人者たちの追加起訴により、カンボジアの安定が崩れるなどと予測する人はいない」と、アダムスは述べた。「クメール・ルージュ政権崩壊30周年にあたっても、カンボジア政府は、政治ゲームを続けている。特別法廷に、本来の職責の追求をさせまいとするあからさまな政治策略だ。」

ポル・ポト政権は、インドシナにおける米国の戦争の末期に権力の座についた。ポル・ポトとヌオン・チアに率いられたクメール・ルージュは、1975年4月17日から1979年1月7日まで政権の座にあった。全人口8百万人の内、推定2百万にのぼる人びとが、ポル・ポト政権の間に、殺害されたり、病気、飢え、強制労働などにより命を落としたと言われる。

クメール・ルージュは、ベトナムに多数の越境攻撃を加え、数百名のベトナム村民を虐殺した。その後、ベトナム軍がカンボジアに侵攻。この侵攻の結果、1979年1月7日、クメール・ルージュは首都プノンペンから敗走した。 クメール・ルージュは、タイ国境地域に退却したが、そこで、タイ、中国、米国、英国、シンガポールなどから、その後10年間にわたり支援を受け続けた。

ベトナム軍をカンボジアから追い出そうと、米国は、カンボジアに広範な国際経済制裁を課すために国際政治を動かし、想像を絶する暴力・貧困・困難を生き抜いてきたカンボジア国民から、健康を取り戻して国を再建するのに必要不可欠な支援を得る機会を奪った。

1980年代を通して、クメール・ルージュは反政府武装活動を行い、結果、数万人が殺害された。ポル・ポト政権時代の犯罪の責任を追及しようという動きは、地政学的な理由により、主に米国と中国により阻止された。

中国の強い要求の結果、ポル・ポト派も1991年のパリ和平協定の当事者となった。この協定は、当時最大の国連平和維持活動だった国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の創設や、新政権樹立のための総選挙の礎になった。その後、ポル・ポト派はこれから離脱したものの、総選挙は実施された。中国は、それ以降、ポル・ポト派支援から手を引くと言明、実際にこれを実行した。しかし、タイ陸軍の一部は引き続きポル・ポト派を支援し、死者や負傷者(主に地雷による)は増え続けた。

クメール・ルージュの活動は、公式には、1996年、ポル・ポト政権時代の外務大臣イエン・サリにカンボジア政府が恩赦を与えた際に終わったとされているが、実体としては、1998年、ポル・ポトが死亡し、ヌオン・チア及びキュー・サムファンなどの最高幹部や兵士数千人が、カンボジア政府に投降したことにより崩壊した。

1997年、当時共同首相だったフン・セン及びノロドム・ラナリット皇太子は、当時の国連事務総長コフィ・アナンに書簡を送付し、ポル・ポト派の責任を追及する国際法廷設立を依頼。しかし、この取り組みは、国連安全保障理事会がこうした法廷の創設を決議すれば拒否権を行使すると言明する中国、そして、ポル・ポト派の崩壊によりポト派の責任追及に政治的利益がなくなったと考えたフン・セン首相によって阻止された。裁判にかけるどころか、フン・セン首相は、政府に投降したポル・ポト派幹部を自宅に招いてシャンペンで乾杯、カンボジア国民に「過去は葬ろう」と呼びかけた。

「フン・セン首相は、過去10年の大部分を、信頼に足る法廷を創設しようとする国連の取り組みを、遅延に次ぐ遅延や裁判管轄に対する闘いで、台無しにすることに費やしてきた」 と、アダムスは述べた。「そして、今、フン・セン首相は、あと数件の追加起訴さえも止めようとしている。」

ヒューマン・ライツ・ウォッチは、不処罰を享受してきたのはポル・ポト派だけではない、ポル・ポト時代後今に至るまで不処罰は顕著なままだ、と述べた。ベトナムを後ろ盾とするカンプチア人民共和国(1979年から93年)は、カンボジア国民の基本的人権を日常的に侵害。UNTACが活動していた1990年初頭、国連は、フン・セン率いるカンボジア人民党の支配する部隊による数百件に及ぶ殺害事件と襲撃事件を調査・記録している。

1997年3月、政府を批判する政治集会に手榴弾攻撃が加えられ、少なくとも16名が死亡、およそ150名が負傷した。フン・セン首相のボディー・ガード部隊が、この襲撃に関与していた。1997年7月、フン・セン首相は、連立政権を組んでいた王党派に対してクーデターを起こし、100名を超える反対勢力が超法規的に殺害された。1998年の選挙では、更に数十人が殺害された。過去10年の間、多数の野党政治家、ジャーナリスト、労働運動家、人権活動家が、殺害されたり、襲撃されたりした。これらの事件には多くの証拠があるにも拘わらず、犯人は一人として裁判にかけられていない。

「ポル・ポト派の犯罪についても、近年起きた事件についても、残虐で有名な真の犯人たちは、未だに自由の身のままでいる。悲しいかな、カンボジアでは、不処罰がほぼ完全にまかり通ったままなのだ」と、アダムスは述べた。