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イエメン:デモ参加者への過剰な実力行使

アデンでの非暴力の抗議行動で、治安部隊により最低9人が死亡、150人が負傷

(ニューヨーク) - イエメン政府の治安部隊は2011年2月、同国南部の主要都市アデン市で、おおむね非暴力で平和的だった抗議デモの参加者に対して、過剰かつ殺傷力を伴う実力行使を行ったと、ヒューマン・ライツ・ウォッチは本日発表の報告書で明らかにした。治安部隊はライフルや機関銃などの火器をデモ隊に向けて用い、少なくとも9人(おそらくその倍以上)が死亡し、子どもを含む150人以上が負傷した。

本報告書『アデン-虐殺の日々』(全20頁)は、戦略上の要衝である港湾都市アデンで、デモ隊に対し2月16日から25日の間に加えられた攻撃についてまとめた報告書。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、警察と軍隊も攻撃を逃れようとするデモ隊を追跡し発砲したことを明らかにした。また現場に向かおうとする医者や救急車を妨害し、負傷者を救出しようとした人びとにも発砲を行ったほか、銃撃現場から薬莢などの証拠を持ち去った。

「非暴力のデモ参加者に、発砲で対処して許されるはずがない」と、ヒューマン・ライツ・ウォッチ中東・北アフリカ副局長ジョー・ストークは述べる。「域内外の各国政府は、イエメン政府に対し、人権尊重が国際援助の条件であると明確に示すべきだ。」

イエメン政府当局は、こうした違法な攻撃を直ちに停止し、アデンでの死傷者に関する公平な調査を実施すべきだとヒューマン・ライツ・ウォッチは指摘した。

今回の報告書は、負傷したデモ参加者と殺害の目撃者、亡くなったデモ参加者の親類、医師、救急隊員、人権活動家など50件以上の聞取り調査に基づいている。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、デモ目撃者から提供されたビデオや写真のほか、病院の記録、デモ参加者が銃撃後に証拠として収集した銃弾なども分析した。

2007年以降、アデンはイエメン南部での抗議行動の中心となっている。住民たちは、ビジネス機会の増加や政治的自由の拡大を求めたり、あるいはイエメンからの独立を求めている。南部は1990年に北部と統一されるまで独立の共和国だった。2月3日、アデンなど南部地域のデモ参加者は、アリー・アブドゥッラー・サーレハ(サレハ)大統領の退陣を求める全土での呼びかけに呼応した。

アデンでは、現在も、治安部隊によって、大規模なデモが禁止されている(なお2月22日以降は首都サヌアでは許可された)。それでも数百人規模のグループが、2月15日からほぼ毎日アデン市内の各所でサレハ大統領への抗議行動を展開している。

同国政府筋は「南部運動」に今回の虐殺の責任があるとする。同運動は2007年以降の南部における抗議行動や最近の反大統領デモの中心となっている緩やかな連合体だ。

ヒューマン・ライツ・ウォッチは、アデンで、治安部隊ならびに公安部隊(中央保安機構[CSO。内務省下の準軍事組織]、警察、軍隊、全国保安局[NSB。大統領直下の公安・諜報機関])が、デモ参加者がもたらす危険に比べて、明らかに過剰な殺傷性のある実力行使を頻繁に実施していることを確認した。ヒューマン・ライツ・ウォッチが今回報告書にまとめた事例すべてにおいて、治安部隊は催涙ガス、ゴム弾、実弾を用い、ライフルから機関銃まで様々な火器を使っていた。

多数の証言者が、デモ参加者は丸腰であり、周囲の人びとや資産に対するいかなる脅威ともなっていなかったと話している。暴力行為が一切ないデモもあった。一部のデモでは、解散させようとする治安部隊に参加者が投石している。

死亡者の大半が若い成人男性か未成年男性だった。ヒューマン・ライツ・ウォッチは未成年男性3人(2人は 17歳、1人は16歳)の殺害事件を記録した。負傷者の多くも子どもだった。ヒューマン・ライツ・ウォッチはまた、治安部隊がデモの見物人を殺傷した複数の事例を記録した。ある男性は自宅の窓からデモを眺めていたところ、銃弾が当たって死亡した。

治安部隊は街頭から素早く薬莢を回収する一方、当局は被害者の家族に遺体を直ちに埋葬させた。証拠を隠滅し、大規模な人民葬を防ぐためのあからさまな行為だ。少なくとも1つの事例で、当局はデモでの死者のうち1人の遺体について法医学報告書を作成した。

アデンにおける政府側の攻撃による正確な死傷者数は現在も不明なまま。当局は犠牲者に関する情報を公表しておらず、独立したオブザーバーの国立病院へのアクセスを禁じた。負傷者の多くは、治安部隊が自分たちを入院させて逮捕していることを知り、国立病院には向かわなかった。このため民間病院は過剰収容状態になった。

イエメン政府の治安部隊は、この時期にアデンでの平和的なデモへの参加者、および南部運動の活動家数十人を逮捕したことをヒューマン・ライツ・ウォッチは明らかにした。一部は釈放されたものの、ヒューマン・ライツ・ウォッチの記録は、南部運動の活動家が身柄を拘束された後に「失踪した」事例が少なくとも8つ存在することを明らかにしている。

ヒューマン・ライツ・ウォッチは2009年の報告書『統一の名の下で』で、南部でのデモ参加者に対してイエメン治安部隊が今回と同様の過剰な実力行使に出た事実を記録している。

「最近の一連の殺傷事件は、アデンとその周辺地域での合法的な反政府行動を押さえ込もうとするサレハ大統領の残忍な手法の最新版だ」と前出のストークは指摘する。「国家の統一を作り出すどころか、こうした不当な攻撃によって、政府と南部住民との亀裂がさらに深まる危険が生じている。」

『アデン-流血の日々』に収録された証言より

ヤシンは8人ほどの警官と話をしていた。かれらとの距離は3メートルほどだった。私たちはヤシンがこう言うのを耳にした。「俺は武器を持っていない。丸腰で近づいているじゃないか。それでも俺を撃つつもりか?」 するとそのとき、別の警官の一団の1人が、40メートルくらいの距離からヤシンに発砲した。オートマチック拳銃の銃声で、3発が同時に発射された。彼はその場に倒れた。脇に弾を受けたヤシンを友人たちが病院に運んだ。

ワジュダンの証言。氏はデモ参加者で、216日に友人のヤシン・アリー・アフマド・ナジ・アル=ゲラフィー(20)の命を奪った銃撃の模様をこう語った。なお自身も腹部を負傷している。

向こうからの警告はなかったが、その代わりに叫び声が聞こえた。「お前らを殺してやる。頭をぶっ飛ばしてやる。」 私たちが走り始めると、警官隊は区内の通りを追跡してきた。発砲が続き、そのうち一発を手首に受けた。友人たちが助けてくれようとしたが、警察に阻まれた。私が警官から病院に運ばれたのは後になって、銃撃が終わってからのことだった。

ムハンマドの証言。 218日、アデン市アルーマンスーラ区を出発したデモ隊に対する警官隊の発砲の様子を語る。

私は自分の車でそこまで行くと、検問所で中央保安機構の職員に停止を命じられた。自分が何者かを明らかにし、負傷者の救護に来たことを説明したが、通行は許可されなかった。「そのまま死なせるまでさ。」 彼らはまさしくそう言った。

225日にアル・ムアッラ区で起きたデモでの負傷者の救護に向かおうとした民間診療所の医師の証言。

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