杉山文野さんは、父であり、経営者であり、トランスジェンダーの権利のアクティビストであり、東京レインボープライドの代表理事です。でもこれらすべてを始められる前は、国際的なアスリートとして、女子フェンシング日本代表チームで活躍されていました。
今年の夏、日本ではオリンピックが予定されていましたが、Covid-19により来年まで開催が延期されました。でもこの延期は、スポーツそして日々の生活における平等に関する議論をも遅らせてはなりません。ヒューマン・ライツ・ウォッチは先日、アスリート・アライそしてLGBT法連合会が率いる100近くのLGBT団体とともに、日本政府に対し、オリンピック前に反差別法の成立を求める書簡を提出しました。
杉山文野さんは、ヒューマン・ライツ・ウォッチのフィリップ・スチュワートに、自らのアイデンティティについて、スポーツ人生への影響について、そしてなぜ日本に反差別法が必要かについてなどを語りました。
なぜフェンシングを始めたのですか?
3歳から水泳をやっていました。でも水着が嫌でした。剣道もやっていましたが、当時そのチームでは女の子だけが赤胴だったんです。それが嫌でやめてしまいました。フェンシングはユニフォームで男女の差がなかったのがいいなと思いました。
日本代表に選ばれ、世界大会にも出場されました。フェンシングに居場所を見つけたと感じられましたか?
正直、フェンシング界で居心地が良かったかと言うとそうではなくて、やはり男尊女卑が強いし、スポーツの世界は男社会で強い者が評価されるという中で、マイノリティの居場所はないなと感じました。男の選手が体力的にへばっていたりすると、なんだオカマかこのやろう、みたいな言葉が飛び交う中で、いつか自分がバレたらどうしよう、みたいな恐怖感はずっとあったと思います。
日本代表に入ったのは25歳の時でした。いつもベスト8くらいには行ったのですが、すごく強い選手ではなかった。日本代表で頑張ってみようと思ったけれど、女子の日本代表ということにもずっと違和感がありました。
なかなかフェンシングを続けられないのではないかなあとか、そういった葛藤は常にありました。
これらはフェンシングに影響を与えたと思いますか?
今振り返ってみると、競技をする上で、自分に心理的安全性がなかったと思うんです。僕はここ一番に結構弱かったんです。フェンシングの試合で15本勝負の時に、14対14で一本勝負、みたいな時はほとんど勝ったことがなくて。でも、自分がただ弱かったのか、には疑問があります。いざ勝負、という時に大事なのは、自分を信じる力だと思いますが、僕は常に自分に自信がなかった。
練習時間はオカマオカマ、などの言葉が飛び交っていて、自分も常に体のことを気にしていなければならなかった。そんなのを跳ね除けて、競技に勝てば良かったのかもしれないですが、セクシュアリティのことが少なからず関係あったのだろうなと、今振り返ると思います。
ご存知の通り、レベルは全く違うのですが、私もフェンシングをしていました。うまくフェンシングできている時、マインドと身体が繋がり、全てが一緒になる感覚がありました。そのような感覚は経験されたと思いますか?
いわゆる心技体のような、心と身体は、常に噛み合っていなかったと思います。それも今だから分かるのですが、当時は、カミングアウトしてオープンに過ごす生活も知らなかったです。
いつカミングアウトすると決められたのですか?
日本代表に入った後の一年間は、とにかくフェンシングだけに集中しました。でも怪我が多くて、翌年の日本代表選考会で落ちたんです。
チームではカミングアウトできないし、コーチも理解がなくて、居場所もなかなか感じられませんでした。
それもあって引退しようと思いました。そして女子の身体からも引退だと思って、引退してからトランジションを考え、少しずつ準備をした感じです。
身近な人たちからはどのような反応がありましたか?
カミングアウトはちょこちょこ身近な人にしていました。高校や大学の友達で知っている人もいました。フェンシング界が一番言いづらくて、部活の同学年の子に少し言ったくらいでした。
でも「文野は文野じゃん」という感じで、概ねみんな受け入れてくれました。
それに驚かれる読者もいるかもしれません。
日本では、性同一性障害 (GID) ということで世に知られることになったから、障がい者だからサポートしましょう、と見られていて、すごく否定されることもありませんでした。
ヒューマン・ライツ・ウォッチの動画の中でも、トランスジェンダーは障がいではない、とのメッセージを伝えてくださっていましたが、日本ではトランスジェンダーの人たちへの見方は変わってきたと思われますか?
少しずつは変わってきているけれど、まだ変わらないかなと。日本はその当時、トランスジェンダーという言葉は使っていなかったし、障がいでかわいそうだから、という理解でした。
それが少しずつ、トランスジェンダーという言葉を使うようになってきたりとか、障がいとは見られなくなってきてはいるのですが。
あと特に、トランス女性とトランス男性だと状況が全然違います。日本はジェンダーギャップがひどいですよね。トランス女性は、トランスジェンダーであるというマイノリティと、女性であるという弱い立場がかけ合わさって、一番大変な状況だと思います。
1日を過ごされる中で、シスジェンダーの人だと経験しないような体験もありますか?
今は、みんなと同じで自宅で過ごしています。子どもできて、料理をしたりとか、家で家族で時間を過ごしています。
普段は、自分のビジネスをやっていて、飲食店を2店舗経営しています。あと、講演会を年に100本から120本くらいやっていて、プライドの運営もしています。
彼女と10年近く一緒にいて子どもができても、戸籍上は女性同士なので、赤の他人として暮らしているという状況なんです。だからもし子どもに何かあっても、病院で面会を断られてしまうかもしれないとか、そんな不安は常にあります。
プライドについて触れられましたが、なぜプライドに関わろうと思ったのですか?
手術をしたのは28歳くらいだったのですが、プライドは、同性愛の人たちがやっているデモなんでしょ、という感じで、性同一性障害の自分は関係ない、と思っていました。
でも自分が代表として関わってから、パレードを、デモ行進みたいなイメージから、フェスティバルのように見せ方を変えて、より広く社会にアプローチしようと方向転換をして、日本社会にいい影響を与えられたのではないかと思います。
来年日本で開催されるオリンピックは、平等や連帯を象徴するイベントです。オリンピックの日本開催に何を期待しますか?
オリンピックによって、ダイバーシティが言いやすくなりました。日本社会ではおじさんたちが物事を決める中で、ダイバーシティってみんな言ってるからやらなくてはいけないのだろうな、と分かってきたのだと思います。
でもあくまでも、オリンピックからがスタートだと思うので、反差別法のような法律や制度をしっかり作るところまでやりたい。
構造的な差別があるのが一番大きな問題です。構造を平等にしなくてはいけないと思います。
オリンピックが終わった後に、あの時は盛りがっていたよね、でもなんだったっけ、となってしまうのは良くない。次の世代に何を残せるかが大事だと思います。
日本にはまだ反差別法がありません。そのような法律ができたら、文野さんの生活をどう変化させると思いますか?
日本では、法律がないためにLGBTの人びとに対する理解が進んでいません。同時に、理解が進まないために法律の必要性が認識されないという悪循環が起きてしまっています。
法律がないことにより常に漠然とした不安があります。反差別法ができれば、誰もが安心して暮らせる日本社会に近づき、それはLGBTの人びとだけではなく全ての国民にとって非常に大事なことだと考えます。
LGBTの当事者、非当事者に関わらず、誰もが何かしらのマイノリティ性をもっています。誰もが安心して暮らせる社会を一緒に作っていきましょう。
スポーツがより包括的で受容的になるため、何ができると思いますか?
スポーツはフェアなルールのもとに戦うのが基本。今の社会がフェアでないことは、スポーツ界の人に分かってもらいやすいと思うんです。そしてアスリートは、誰かに応援してもらうのが力になることも知っています。
スポーツは社会に対して影響力が強いと思います。スポーツ界が変わると、社会全体が変わるきかっけになります。一人でも多くのアスリートをしっかり巻き込みながら、一緒にできたらいいなと思います。
読者に向けて、最後に伝えたいメッセージをいただけますでしょうか。
心理的安全性の話を最初にしましたが、心理的安全性が保たれる環境だと、個人でもチームでも能力を発揮しやすい中で、僕はその安全性を感じられず、発揮しきれなかったと思います。そしていま日本のLGBTの人たちは、心理的安全性がまだ保たれていない中で暮らしていると思うんです。
こんなに勿体無いことはない。スポーツ界においても、日本という国においても、発揮できていないポテンシャルをしっかり生かせるようになってほしい。
誰でも自分の能力を発揮できるよう、すべての人が心理的安全性を保たれるようになってほしいです。