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ナイジェリア:虐殺の調査と、パトロールの強化を

中部の村々で、暴徒たちが数百名を殺害

(ダカール)-2010年3月7日、ナイジェリア中部で、キリスト教徒の村が襲撃され、少なくとも200名虐殺された。ナイジェリア大統領代行は、この事件の徹底的かつ速やな調査を行ない、責任者を訴追するよう、しっかりと指揮を執るべきである、と本日ヒューマン・ライツ・ウォッチは述べた。また、更なる襲撃や報復的殺害に遭う危険性があるすべての民族を保護するため、攻撃の危険がある地域を定期的にパトロールするなど、ナイジェリア大統領代行は軍及び警察の迅速な行動を確保すべきである。

この虐殺は、3月7日の早朝、暴力事件が相次いでいるナイジェリアのプラトー州(Plateau State)で発生。銃、なた、ナイフで武装した男たちが、プラトー州の州都ジョス(Jos)の10km南にあるキリスト教徒の村であるドゴナハワ村(Dogo Nahawa)、ゾト村(Zot)、ラツアト村(Ratsat)の村民を襲撃。殺された人びとには多くの女性や子どもが含まれていた。

ヒューマン・ライツ・ウォッチの西アフリカ上級調査員コリーン・ダフカは、「このような残虐な方法で、プラトー州では過去十年間に何千名もが殺害されてきた。しかし、誰一人として虐殺の責任を追及されていない」と述べる。「今こそ譲れない一線を示す時である。ナイジェリア政府は、これらのコミュニティーを保護し、加害者の責任を追及し、これらの暴力の根本的原因に対処する必要がある。」

ヒューマン・ライツ・ウォッチの聞き取り調査に応じた目撃者たちによると、襲撃はハウサ(Hausa)語とフラニ(Fulani)語を話すイスラム教徒の男たちが行なった。襲撃の対象となったのは、ベロム族が大半をしめるキリスト教徒たちだったという。ジョスの市民リーダーたちは、この襲撃は、同地域で以前に起きたイスラム教徒コミュニティーへの攻撃と、フラ二族の牛飼いから家畜を盗んだことに対する報復だろう、と語った。1月19日に近隣のクルカラマ(Kuru Karama)で起きた襲撃では、150名を超えるイスラム教徒住民が殺害された。

襲撃の目撃者たちは、午前3時頃、村民の大多数がキリスト教徒であるドゴナハワ村を武装した男の集団が襲撃したと語った。この集団は、村を包囲した後、キリスト教徒の住民を追いたて、逃げようとする者を殺害し、生き残った多くの人びとに火をつけた、という。襲撃者の中には、以前はその村に住んでいたものの、2001年、2008年、そして2010年初頭にコミュニティー間の緊張が高まった際、村を逃げ出した者が含まれていたと見える、と目撃者たちは答えている。

虐殺の目撃者や、ジョスのコミュニティーリーダー、村々を訪れたジャーナリストたちは、ヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、小さな子どもや赤ん坊の遺体が家や道端に散乱していた、と語る。村の外へつながる道にも遺体は散乱したとのこと。ドゴナハワでは、今日、犠牲者67名の集団埋葬が行なわれた。これに参列したあるキリスト教徒のリーダーは、およそ375名の人びとが死亡、あるいは未だに行方不明だと語った。その町を訪れたジャーナリストたちや地域のリーダーたちによると、多くの家や車などが焼かれ、破壊された、という。

「今度の襲撃は、我々のみたところ、1月におこった事件の報復だ」とプラトー州警察のスポークスマンであるモハメド・レラマ(Mohammed Lerama)氏はヒューマン・ライツ・ウォッチに述べた。今回の襲撃に関連して、これまでに警察は98名を逮捕したと公表した。

2月9日にナイジェリア議会で大統領代行に指名されたグッドラック・ジョナサン(Goodluck Jonathan)副大統領は、1月に発生した暴動に対し、ジョスの街頭と周辺コミュニティーに派遣する軍人の数を増強することで対応した。しかし軍隊やパトロールは大きな幹線道路と街に見られるのみで、小さな村々の多くは保護されていなかった。

1月中旬、近燐の街クル・カラマとその周辺で特に大規模で残虐な暴動が起きた。その後、ジョナサン大統領代行は、加害者を裁判に掛けると公約。「今回の危機を扇動・工作したと判明した者は、逮捕され速やかに裁判に掛けられることになる。みんなで行動したのだから自分の罪ではないと法の正義から逃れようようとする者を我々は許さない。犯罪は、それぞれの罪の重さに準じて、個々人が責任を追うものであり、集団の問題ではない」とジョナサン大統領代行は述べた。

ジョナサン大統領代行の公約は正しい方向への一歩だ。しかし、言葉での約束に加えて、信頼に足る捜査と訴追が必要だ、とヒューマン・ライツ・ウォッチは述べた。

背景

ナイジェリアは、深刻な民族と宗教間の対立を抱えている。1999年に軍支配が終焉して以来、宗教問題や民族問題に根ざした衝突で、1万3500名以上の人々が死亡している。3月7日にジョス南部で起きた暴動は、プラトー州及びその周辺で犠牲者を出し続けてきた一連の虐殺事件のうち、最も最近の事件である。

2001年9月、ジョスで前例のない暴動が発生。千名にものぼる犠牲者を出した。2004年5月にプラトー州南部にある街イエルワ(Yelwa)で起こった地域間の衝突では、700名を超える人々が死亡。2008年11月28日と29日にも、ジョスでの暴動で、少なくとも700名の人々が殺害されている。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、調査の結果、2008年の暴動を鎮圧するために出動した治安部隊が133件の殺人を犯したと報告。今年1月17日、またしてもジョスで宗派間の衝突が発生し、近隣地域クル・カラマなどに急速に拡大した。

2008年12月、ナイジェリアのウマル・ヤラドゥア(Umaru Yar'Adua)大統領は、2008年のジョス暴動を調査する委員会を設立したが、そこでの審理が始まったのは、2009年12月になってから。プラトー州のジョナー・ジャン(Jonah Jang)知事も公開で審理を行なう調査委員会を設置したが、その報告書は公表されていない。警察と司法当局は、このような残虐な虐殺事件が起きたにもかかわらず、徹底的な捜査はなされず、虐殺の責任者は訴追されていない。

ナイジェリア政府がとる「非先住民」差別政策をやめること、そして、差別解消に向けた具体的な措置を採るよう、ヒューマン・ライツ・ウォッチは強く求めてきた。「非先住民」とは、自らの祖先のルーツが現居住地にはない人々のことを指す用語である。こうした「非先住民」に対するナイジェリア政府の差別政策が、民族対立の根本的原因となり、民族間の緊張関係を煽ってきた。単に文化的差別や伝統的支配制度に関する差別だけでなく、あらゆる面における政府の対「非先住民」差別を禁止する法律を、ナイジェリア連邦政府は成立させて施行すべきである、とヒューマン・ライツ・ウォッチは述べた。

例えば、「非先住民」は、ナイジェリア政府の仕事や大学の奨学金に申し込む権利を公然と否定されている。大多数がイスラム教徒であるハウサ(Hausa)族はジョス及びその近郊の「非先住民」とされているが、実際には、その多くがその地に何代にもわたって生活してきている。

目撃者の証言の一部:

「ドゴはジョスから数キロメートルほど離れた農村なんです。ヤツラは午前3時頃、襲撃にやって来ました。到着してすぐ撃ちはじめ、オレたちの多くは何ごとだ!?って外に飛び出したんです。そしたら他のヤツラがナタでオレたちを襲ってきて、沢山の人を殺しました。逃げるのは簡単じゃなかった。オレは森に入って隠れ、そこからヤツラが他の人を殺しているのを見ました。ヤツラは、150人くらいの子ども、80人くらいの女の人、50人くらいの男の人をドゴ・ナハワで殺しました。銃やなたを持った200人くらいの男がいました。逃げた後、オレたちの家が燃えているのが見え、女の人や子どもが殺されていく悲鳴が聞こえました。聞こえてきた[襲撃者の]声から、ヤツラは前ここで住んでいた連中だと分かりました。オレはヤツラがハウサ語とフラニ語の両方でしゃべっているのを聞いたんです。「今度はお前たちの番だぜ」って言ってました。今度の襲撃には何の警告もありませんでした。オレは逃げられてすごく運が良かった。逃げる間に沢山の人が切り殺されるのを見たんです。襲撃は軍が現れた午前4時半頃まで続きました。襲撃者は明るくなると同時に姿を消しました。みんな徒歩でした。」-ヒューマン・ライツ・ウォッチに何が起きたのかを語ってくれたドゴ・ナハワのある住民

「日曜日の午前3時30分頃、ボクは村にいて、そこにハウサ族とフラニ族の民兵がやって来ました。数は多かったですよ、数百はいたかも。多くは兵隊を装って迷彩服を着ていました。頭部を布で覆っていたので、ボクたちは彼らを見分けることは出来ませんでした。」

「彼らは銃、弾薬、ナタを持って来ていました。一つのグループが、ボクらの村を包囲し、発砲し始めました。そしてもう一つのグループは、もっと近づいてきて、ボクたちが家から飛び出てきたところを、ナタで襲ったんです。多くの女の人は家の中に留まりました。それが多分、沢山人が死んだ原因なのかもしれない。ボクは沢山の村人、女の人・子ども・何人かの男の人が切り殺されるのを見ました。ボクは娘の1人を殺されました。娘は7歳でした。もう1人の娘もナタで怪我を負わされ、今病院にいます。

「ボクはマンゴーの木に登って逃れました。そこからヤツが殺戮を行なって、家に火を放ち、ボクたちの財産を破壊するのが見えました。ヤツらが村民を殺しながら、家を全部壊せと言っていたこと、そして村民を殺した時「アッラーは偉大なり」と言っていたのをボクは聞きました。ボクたちは襲撃者が使った言葉で、ヤツらが誰であるかが分かりました。ハウサ語とフラニ語を話していましたから。中にはボクたちの村にかつて住んでいて、その後出て行った者もいました。以前ボクたちは彼らと一緒に住んでいたんです。 仲良く、何の危機も問題もなく・・・。2001年にその一部が村を離れ、次に2008年、それからこの1月に起きた危機の後、また一部が立ち去りました。軍は[午前]4時30分頃来ました。 襲撃者は小道を通って徒歩で来ました。彼らは家畜も殺し、家を破壊しました。ボクたちには何も残っていません。すごく不安を感じています。」-ドゴ・ナハワで見たことを、ヒューマン・ライツ・ウォッチに語ってくれた25歳の学生

「ボクはドライバーですが、自分の車が攻撃で燃やされたので、今は働くことができません。 ラトサット(Ratsat)はドゴ(Dogo)から約1キロメートル離れたところにあります。両方の村で同時に襲撃が始まりました。 ボクたちが自分らの村で射撃音を聞いたのと同時にドゴからも射撃音が聞こえたので、それが分かったんです。ボクは飛び出すと、外は混乱していました。炎が燃え始めているのが見えました。 たくさんの人、おそらく200人くらいが村で殺されました。 ボクはオヤジを失くしました。 オヤジの死体を家の外で見つけたんです。親父の頭は完全に打ちのめされていました。 襲撃者は黒い服を着ていたと思います。 暗くて、すごく怖かったです。 そして軍は4時半頃にやっとやって来ました。攻撃者の何人かは、フラニ語とボクらが話すベロム語の両方で話していました。 ボクは、ヤツらが、「オレたちはやっと来た...お前ら、今におれたちがやっつけてやるから見とけ」と両方の言葉で言うのを聞きました。あいつらの何人かは、以前、ボクたちと一緒に暮らしていて、1月にいなくなったヤツでした。」-攻撃の朝、Ratsatの村にいたドライバー

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