2014年、ビルマの改革プロセスは大きく失速し、基本的自由と民主化の進展をめぐって後退も見られた。現政権は人権を大幅に制限する法律を引き続き成立させ、2015年総選挙を控えた憲法改正問題を先送りしている。土地の接収に抗議する人びとやジャーナリストなど、暴力を用いずに政府の方針を批判する市民の逮捕も増えている。
ペースダウンする政治改革
2015年総選挙を自由かつ公正に実施するとの政府の公約は、2014年に疑いの目で見られるようになった。予定されていた中間選挙を取りやめ、重大な欠陥のある2008年憲法を改正するとの公約を果たさなかったからだ。野党の国民民主連盟(NLD)とドナー国は憲法改正を強く求めた。特に野党指導者アウンサンスーチー氏の大統領就任を事実上認めない第59条f項や、国軍に議席の25%を割りあて、憲法改正に事実上の拒否権を与える第436条が問題とされた。政府は連邦制に関する実質的な議論の求めに応じなかった。
ビルマ国軍(タッマドー)は憲法改正を受け入れず、軍幹部は現憲法擁護が国軍の主要な義務であるとの考えを演説で何度となく繰り返している。軍幹部はまた、議会での議席割当、主要閣僚の占有、非常事態時の権力掌握は手放さないとはっきり述べた。
結社・集会の自由
元政治囚の団体によれば、本報告執筆時点でビルマには少なくとも27人の政治囚がいる。このほか約200人が、集会・表現の自由の権利を行使しようとしたと見られる理由で起訴されている。官民合同の政治囚審査委員会が2013年前半に組織され、残る事案の解決を目指したが、議長を務める首相府付大臣ソータン氏と元政治囚側との対立が原因で、委員会は2014年に解散した。ソータン大臣は委員に対し、政府批判を続ければ国籍を剥奪すると迫ったと伝えられる。10月には大統領令による恩赦が行われ、3,000人が釈放されたが、政治囚はロヒンギャ民族など十数人だった。
土地接収問題をめぐる抗議運動は2014年に激化した。強制移動を命じられた農民は、不十分な補償しか受けとれず、短期間での移動を求められることがたびたび起きた。土地の返還を訴えるため、象徴的に畑仕事を行なっていた農民たちは、兵士から暴行された。国軍が過去数十年続けてきた大規模な土地接収が国会で取り上げられたが、軍選出の議員によって討論は中止に追い込まれた。
6月、国会は世論の圧力に従い、平和的行進・集会法を改正したが、物議を醸した第18条は変更しなかった。この条項は地方当局者に集会申請を不許可にする広範な裁量を認めている。結社法法案は、世論の激しい批判にさらされており、本報告書執筆時点でも審議が終わっていない。内務省は軍の統制下にあり、国内NGOと国際NGOの登録制限に関する広範な権限を行政に認める条項を削除することには消極的だ。
報道の自由
ドナー国の一部が人権状況の主要なバロメーターと見なす報道の自由は、政府がメディアを威圧する姿勢を強めたため2014年に大幅に後退した。
1月、情報省は出版社に対して論説の内容変更を求めたり、出版物について政府が定めた地名の綴り字を用いるよう圧力をかけた。また亡命ビルマ人ジャーナリストや外国人ジャーナリストへのビザを制限し、滞在期間を3~6ヶ月から、わずか28日に短縮した。
7月、週刊紙「ユニティ」の記者4人と編集者1人に対し、裁判所は公務秘密法違反で10年の刑を下した(後に7年に減刑)。ビルマ軍の化学兵器工場と見られる施設が、接収した土地に建設されたとの記事が理由とされた。多くのジャーナリストはこの事件を、過去の厳しいメディア規制への逆戻りと捉え、警戒感を強めた。
10月、国軍はフリー・ジャーナリストのアウンチョーナイン(別名パージー)氏を拘束した。氏はモン州で国軍と民族反政府武装勢力との戦闘を取材していた。国軍は拘束中のパージー氏が逃亡を企てた際に銃弾が当たり死亡したと発表した。遺体は国軍のキャンプ付近に埋葬された。政府は全国人権委員会(NHRC)に調査を求めた。遺体が掘り返され、検死が行われると、激しい拷問が加えられ、射殺されたことが判明した。12月2日、全国人権委員会はこの事件を民事裁判所に付託し、審問を行うとの決定を行った。
現在審議中のメディア関連法が成立すると、ジャーナリストによる自由な報道は制約を受けるだろう。たとえば、公共メディア法は公的資金に基づく複合型のメディア事業体の設立を後押しするものだが、成立した組織は強力な親政府メディアになる可能性がある。
宗派間での緊張と暴力事件
ビルマでの仏教徒住民とムスリム住民との関係は2014年も緊張が続いた。ウルトラ民族主義的な仏教僧組織「969運動」は扇情的な論理を用い、ムスリムへの暴力をたびたび誘発した。7月、中部の都市マンダレーでムスリムが所有する建物が襲撃され、男性2人(1人は仏教徒でもう一人はムスリム)が死亡した。その後到着した治安部隊により暴力事件は終息し、夜間外出禁止令が出された。
当局はムスリムへの暴力に荷担した人物の一部を捜査・訴追した。マンダレー事件の容疑者も含まれる。10月、2012年にアラカン(ヤカイン)州タンドウェーでバスに乗っていたムスリムの巡礼者10人を殺害した男性7人に対し、7年の刑が宣告された。この攻撃は地域での緊張を高め、大規模な暴力事件の引き金になった。2012年6月と10月にはロヒンギャ民族ムスリムへの「民族浄化」攻撃が発生した。
全国組織の「人種宗教保護連盟」(通称「マバタ」)は政府に対し、仏教の保護を目的とした4つの法律を施行するようにとの要請を続けている。これらの法律は、ムスリム住民のさらなる周辺化という意図をほとんど隠していない措置と見られる。一連の措置には異教徒間での結婚、改宗、家族計画と重婚に関する法律が含まれる。改宗に関する法律の草案は5月に公表されて意見募集が行われたところ、信仰という個人的な領域を侵すものだとして非難された。この法律には100近い民間団体が抗議の書簡を送っている。969運動の指導部は、ウルトラ民族主義者の仏教僧ウィラトゥ師も含め、抗議に加わった団体を「裏切り者」呼ばわりしている。
ロヒンギャ民族への人権侵害
ビルマ西部アラカン州でのロヒンギャ民族ムスリムへの組織的な迫害は2014年も続いた。なかでも2012年の暴力事件で住居を失った14万人の国内避難民の被害は深刻だ。バングラデシュ国境のマウンドーとブティーダウン両郡に住む推計100万人のロヒンギャ民族が、移動・就労・信教の自由を引き続き制限されている。
ビルマに住むロヒンギャ民族全員が1982年の国籍法により実質的に国籍を得ることができず、子どもを含む多くが無国籍状態となっている。2014年3月から4月にかけて行われた国勢調査は、ロヒンギャ民族に「ロヒンギャ民族」と自己申告することを認めなかった。9月に発表された調査結果によれば、アラカン州の120万人が国勢調査の対象から外れていた。アラカン州を船で脱出したロヒンギャ民族の数は2014年に激増した。2013年頭から5~10万人が海路で出国したと見られる。主な行き先はマレーシアだ。
アラカン州マウンドー郡ドゥチーヤータンというロヒンギャ民族が住む村で2014年1月に起きた暴力事件では、治安部隊とアラカン民族住民によってロヒンギャ民族40~60人が殺害されたと伝えられる。警官1人も死亡したとされる。国連人権高等弁務官事務所は、政府による厳しい制限を受けながら短期間の調査を実施し、暴力事件の発生を確認し、数十人が死亡したとの推計を発表した。
政府による2回の調査とミャンマー全国人権委員会が行った1回の調査は、国際基準を満たさず、中立的な調査者も参加しないものだった。これらの調査は、事件は誇張されたものだとはねつけた。ジャーナリストや独立系の人権団体には、調査に十分な当該地域へのアクセスが認められていない。
この事件の影響もあり、政府は人権NGO「国境なき医師団」(MSF)のアラカン州での活動を事務的な理由で中断させた。これにより、数万人のロヒンギャがプライマリ・ヘルス・ケアをとくに必要としているにもかかわらず、MSFが9月に活動再開を許されるまで、これを利用することができなかった。
3月下旬にアラカン人のウルトラ民族主義者は、シットウェーにある国連や国際NGOの事務所や倉庫を計画的に襲撃し、外国人とビルマ人の援助要員200人以上を退避させた。治安部隊の規制や地元民兵組織の脅迫が原因で援助業務は滞っている。
10月、政府が秘密裏に作成していた、長期開発のための「ラカイン[=アラカン]州行動計画」がリークされた。約13万人が住むロヒンギャ避難民キャンプを国内のどこかに強制移転させること、また差別的な1982年国籍法に基づき国籍資格の有無を決定する国籍認定手続を行う、といった条項が含まれていた。国籍資格がないと判断された人は収容所に送られ、送還される可能性がある。本報告書執筆時点で、この計画は完成しておらず、公表もされていない。
民族紛争と強制移住
全土で停戦交渉が行われているが、ビルマ政府と民族武装組織との戦闘は2014年に増加した。とくにカチン、シャン両州でビルマ国軍とシャン、タアウン(パラウン)、カチン各民族の組織との戦闘が激しかった。民間人数千人が軍による人権侵害から避難した。人口稠密地域への砲撃も伝えられた。
カチン州では2011年から2013年にかけて戦闘が行われ、民間人10万人以上がいまだ帰還できていない。ビルマ軍部隊が大量に展開し、地雷が埋設され、政府軍による人権侵害が続いているため、治安情勢はいまだ緊迫している。国内避難民や難民が安全かつ尊厳を持って帰還できる状況ではない。政府支配地域の避難民は、カチン民族の反政府武装組織を支援したとして非合法結社法違反に問われるなど、治安部隊による恣意的拘束や拷問の対象となっている。
ビルマ東部では今なお推計35万人が国内避難民となっており、タイ側9ヶ所の難民キャンプでは11万人以上の難民が生活する。ビルマ国軍指導部と2014年に新たに成立したタイ軍政との協議により、難民送還について合意が成立した。当該地域の安全が保障されず、地雷が広範に敷設され、法の支配が脆弱であり、基本的なインフラやサービスすらない現状では、帰還は持続可能なものではない。国際基準に沿ったかたちで送還が実施されることはありえない。
国際社会の主要アクター
主要なドナーであるEU諸国、オーストラリア、イギリス、日本は2014年、ビルマへの援助と開発支援を強化した。世界銀行とアジア開発銀行も2014年にビルマへの援助を増額した。
ビルマの人権状況に関する国連特別報告者に新たに就任した李亮喜(イ・ヤンヒ)氏は7月に現地を訪問し、人権状況について一部で進展はあるものの、全体としては依然深刻であり、とくにロヒンギャ問題は重大だとの報告を行った。テインセイン大統領は、バラク・オバマ米大統領に対して行った、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)のフィールドオフィスの公式な開設を政府として許可するとの公約を果たしていない。
政府は人権状況のモニタリングと報告を、能力開発に加えて同オフィスのマンデートとすることに反対してきた。ビルマには4人のOHCHR職員が短期ビザで滞在している。自由な移動が制限されているが、政府職員との接触は許されている。
ビルマ大統領と外相は、国連総会およびイタリアで開かれたアジア欧州会合(ASEM)での演説で、同国の人権状況への厳しい見方を和らげるだけの進展があったと主張した。アンゲラ・メルケル独首相など、それまで批判には及び腰だった人びとのあいだからさえも、9月のテインセイン大統領の歴訪時には、宗教的不寛容と民族間での暴力事件の継続に懸念が表明された。
イギリス、米国、オーストラリアは、法の支配の遵守と軍改革促進が目的とした上で、ビルマ国軍との予備的な非致死的関与を続けた。
ビルマ国軍は、子どもの徴用停止に向けた共同行動計画について国連と協力関係にあるにもかかわらず、子ども兵士の不法な徴用と配備を続けた。2014年、政府は子ども兵士の除隊式を4回開催し、計378人の未成年兵士を除隊させた。非国家武装組織、とくに戦闘が激化したビルマ北部諸州で活動する組織は、子ども兵士の徴用と使用を行っていることが広く伝えられた。