要約
「[性同一性障害者特例法は、トランスジェンダーが持つ]人としての尊厳を傷つける制度であることは間違いないです」
—サブロウ・Nさん、神奈川県在住のトランスジェンダー男性、2018年9月
国内外から厳しい批判が強まっているにもかかわらず、日本における法律上の性別認定手続(戸籍記載変更手続)は時代に逆行する内容で、有害である。同手続は、トランスジェンダーというアイデンティティを精神医学的状態と捉える時代後れで侮辱的な考え方に基づいており、法律上の性別認定(戸籍記載変更)を求めるトランスジェンダーの人びとに対して、長期・高額で、侵襲的かつ不可逆的な医療処置を要求している。
戸籍記載変更手続に関する法律である「性同一性障害者特例法」は、国際人権法と国際的な医学上のベスト・プラクティスに反するものだ。確かに、トランスジェンダーの人びとのうち「性同一性障害」(GID)と診断された上で同法が定める医療処置を望む人びともいるが、多くはそれを望んでいない---そしてそれを求められるべきでもない。
そしてさらに、一連の医学的要件はトランスジェンダーの人びとへの広範囲な偏見を助長している。
「トランスジェンダー」とは、出生時に割り当てられた性別が自らの実感や周りが考えるジェンダーと一致しない人を包含的に指す言葉だ。この語は、出生証明での「女」または「男」の割り当てが、自らが最もしっくりと表現できるジェンダー、または選べるならばそう表現したいジェンダーとは一致しない人びとを指している。
本報告書は、ヒューマン・ライツ・ウォッチが2016年以降に日本のトランスジェンダーを扱った3本目の報告書となる。2016年と2019年の報告書では、トランスジェンダーの人びとの経験を詳細に記した。
人びとは厳格な男女二項図式を核として設計された杓子定規な学校制度に馴染むこと、職場を探して実際に就職すること、医療サービス関係者と関わること、そして基本的権利に従って家族を養育することをめぐって苦闘する経験を語ってくれた。
トランスジェンダーの人びとが法律上の性別の変更を可能にする法律が日本に存在することは、日本政府にトランスジェンダーの人びとと関わり、支援する意志があることの先触れではある。
そしてこの法律は、トランスジェンダーの人びとに対して、法的な性別認定への---限定つきではあるが---機会を提供している。日本ではますます多くの人が、法が定める手続きを踏んで法律上の性別を変更するようになっている。2019年には過去最高の948人が法律上の性別認定を受けており、施行後15年間の合計で9,625人が法律上の性別認定を受けたことになる。
しかし日本政府には、法律上の性別認定制度の問題点に対処し、これを根本から見直す必要がある。というのは、現行法上の性別認定制度が国際基準を満たしておらず、世界で大きな批判と不信にさらされている制度であるからだ。
トランスジェンダーの人びとが、自らの性自認(ジェンダー・アイデンティティ)を法律上認定して欲しいと望む場合、未成年の子がいないこととする要件は、トランスジェンダーの人びとがもつ、私生活と家族生活の尊重を受ける権利を侵害するものだ。外科的介入の義務づけは強要に該当する。さらに法律上の性別認定を受けられること(戸籍記載を変更できること)は、プライバシー権、表現の自由、雇用・教育・健康・移動の自由に関わる諸権利などの基本的権利のために欠くことができない要素の1つである。
この報告書の作成に際し、ヒューマン・ライツ・ウォッチは専門家や活動家にインタビューを行った。インタビューでは性同一性障害者特例法の改正に向けたモメンタムについて言及されるとともに、怠慢と受け取れる政府の態度への不満が語られた。1人からは「国際人権基準に照らして恥ずかしくない法制度を望みたい」との発言もあった。
トランスジェンダーの人びとへの倒錯的なステロタイプや固定観念が、日本社会のあらゆる場面においてトランスジェンダーの基本的権利に対する捉え方にいまだ広く影響を与えている。
たとえば、政府や最高裁判所はトランスジェンダー男性が妊娠することなどの懸念を表明し「社会に混乱を生じさせかねない」ことなどを法律上の断種要件正当化の根拠としている。
性同一性障害者特例法は2003年に成立し、2004年に施行された。当時にしてみれば、同法が特別だったわけではない。この時期に成立した世界各地の法制度にも、日本と同じような差別的で人権侵害的な条項が含まれている。しかし様々な立法府や裁判所、地域的人権裁判所や地域機関は近年、こうした要件が人権法に反するとの判断を示している。
近年、世界各地では断種要件がすでに撤廃されているか、手術を一切の要件としない法律が起草されている。スウェーデンやノルウェーでは、過去に行われたトランスジェンダーの人びとへの強制断種を権利侵害と認め、サバイバーへの賠償が行われている。
同様に医療専門家の組織も各国政府に対し、法律上の性別認定手続から医療要件を削除するよう求めている。直近では、世界保健機関(WHO)が新たな国際疾病分類を発表し、「トランスセクシュアリズム」及び「性同一性障害」を「精神障害」のセクションから除外した。2012年にアメリカ精神医学会が「性同一性障害」について行ったのと類似の対応だ。こうした進展は国際人権基準とともに、日本に対して自国の法律を改正する行程表を提示していると言える。
法律上の性別認定(戸籍記載変更)への権利を得ることは、トランスジェンダーの人びとが周縁化された生活から抜け出し、社会的な平等と尊厳のある生活を営むために欠かせない。自らのジェンダーがどう表現され、登録されるかを決める権限を人びとに与える方向への動きは、ますます大きなものとなっている。法律は人びとに対し、自らのあり方を反映していないアイデンティティ表記をもつことを強制すべきではない。またトランスジェンダーの人びとに対し、性別認定を得るために、あるいは性別認定に伴ういかなる権利を得るためにも、望まない医療処置を受けるよう強制すべきではない。
京都府の府立高校教師でトランスジェンダー女性の土肥いつきさんはこう指摘する。「 特例法の5つの要件は、すべてトランスジェンダーの人生の選択肢を狭めるものです。トランスジェンダーの尊厳を傷つけているのです。 」
日本政府は直ちに現行法を再検討し、国際人権基準と医学上のベスト・プラクティスに沿った法改正を行い、トランスジェンダーの人びとが、透明かつ迅速な行政手続で自らの法律上の性別を変更できるようにすべきである。
提言
国会議員への提言
- 性同一性障害者特例法を改正する法律を提案し、法律上の性別変更に必要な5つの要件を撤廃し、トランスジェンダーの人びとの権利を尊重する自己申告モデルに置き換えること
法務省への提言
- 法律上の性別変更に必要な5つの要件を撤廃し、トランスジェンダーの人びとの個人としての権利を尊重する自己申告モデルに置き換える内容の、性同一性障害者特例法を改正する法律を国会に提出すること
- 性同一性障害者特例法(平成15年法111号)を改正し、同法を国際人権基準及び医学上のベスト・プラクティスの基準に沿った内容にし、戸籍上の性別表記について、いかなる医学的条件の充足も必須とされることなく変更可能とするべきであるという見解を公にすること。特に、性別適合手術と不可逆的な不妊という現在の要件、ならびに請求人に未成年者の子がいないとする要件を撤廃すること。
- トランスジェンダーの人びとの性自認の法律上の認定(戸籍記載変更)を、生活のあらゆる側面に適用されるようにすること。
- トランスジェンダーの子どもまたは若者には、成人年齢(現行法では20歳、2022年4月1日より18歳)に達する前に、法律上の性別変更を行うことが最善の利益である場合があることを認め、トランスジェンダーの子どもについて自らのジェンダーが法律上認定される可能性を排除しないようにすること。トランスジェンダーの子どもの請求の審理においては、申請したトランスジェンダーの子ども自身が、法律上の性別変更の必要性について意見を述べる仕組みを設けるとともに、子どもの自由な意見表明にはしかるべき重要性が与えられるべきだ。子どもの権利条約の下で日本が負う義務に従い、この手続は、子どもは成長し能力を獲得するにつれて、自らに影響する事柄の規制についてより重い責任を負う権利をもつことに基づき設計されるべきである。
- 改正後の法的性別認定法では、トランスジェンダーの人びとが自ら宣言する性自認に従って法律上認められるための条件として、独身であることを要求しないこと。
外務省への提言
- 性的指向と性自認に関する国連独立専門家を日本に招き、トランスジェンダーの人びと、サービス提供者、政府担当者などとの会合を行うこと。
厚生労働省への提言
- 世界保健機関(WHO)で新設された「性別不合 (gender incongruence)」のカテゴリーを採用すると公式に発表し、法務省と連携して、性同一性障害者特例法がWHOの国際疾病分類第11版に沿って改正されるようにすること 。
- 法務省と協力し、性同一性障害者特例法改正のプロセスに着手し、性自認の自己申告に基づいて、行政行為として法律上の性別を認定する手続を整備すること。
- トランスジェンダーの人びとが、必要とする医療的かつ心理学的な支援及びサポートを利用できるようにするとともに、そうした支援やサポートが合理的な期間内に各個人が利用できるようにすること。
- トランスジェンダーの人びとと協議した上で、トランスジェンダーの人びとの性別移行にかかわるあらゆる医学措置に健康保険が適用されるようにすること。
- 心理学者、精神科医ならびに総合診療医などの医療専門家、またソーシャル・ワーカーについて、トランスジェンダーの人びとに特有のニーズと権利、その尊厳の尊重の必要性に関する研修を受講できるようにすること。
調査方法
本報告書は、ヒューマン・ライツ・ウォッチが2015年から行っている、日本でのトランスジェンダーへの人権侵害に関する調査を更新したものである。法的な性別認定(戸籍記載変更)を扱う日本の法律はそれ以降の改正がないため、2016年の学校でのいじめに関する報告書や、2019年の法律上の性別認定に関する報告書で記述した事例の一部を本報告書においても参照している。また、2020年と2021年に実施した追加調査では、判例や日本社会の法律・政治・ジェンダーに関する専門家の視点を詳しく取り上げている。
本報告書は、ヒューマン・ライツ・ウォッチの2019年の報告書『高すぎるハードル:日本の法律上の性別認定制度におけるトランスジェンダーへの人権侵害』を利用した部分が多く、抜粋も行っている。ただし、前回の報告書では、トランスジェンダーの子どもと大人の、人権侵害的で差別的な法律上の性別認定手続きの下での経験を検討したのに対し、本報告書では、法律改正を求める力強い動きに焦点を当て、すでに起きた、またいまにも起こりそうな変化とその動向を注視する活動家や専門家、アナリストの声を大きく取り上げた。本報告書の作成にあたり、私たちは専門家への追加インタビューを行うとともに、最近出版された査読付きの医学雑誌論文や、最新の政策・裁判資料などの2次資料も参照した。
ヒューマン・ライツ・ウォッチの調査員は、調査目的及びインタビュー回答者の証言の本報告書や関連資料での使用方法について、事前に日本語で説明を行ってインタビュー回答者全員から承諾を得ている。インタビュー対象者はインタビューをどの時点でも中断することができ、また答えたくない質問には答えなくてよいとの説明を受けている。
アンケート回答者や対面インタビュー回答者に金銭的報酬は一切支払っていない。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、インタビュー回答者が安全で秘密が保たれる場所で調査員と面会するために利用した公共交通機関の旅費を支払った。インタビューは日本語または、日本語・英語の逐次通訳により実施された。すべてのインタビューは個別に、1回1人ずつ実施している。
I. 性同一性障害者特例法が及ぼす影響
手術要件には違和感しかありません。なぜ国の秩序のために自分たちは健康な体にメスをいれなければいけないのか。大変な侮辱で、そこが悔しい。
—神奈川県在住のトランスジェンダー男性、2018年8月
(手術は)本当はしたくないですけど、日本で結婚するためにはそれが要件だからしなきゃいけない。強要されていると感じます。ひどい話です。
—都内在住のトランスジェンダー男性、2018年8月
2003年に「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」[1](以下、性同一性障害者特例法)が国会に提出され、2004年に施行されて、日本でも法律上の性別変更が可能になった。この段階における同法の内容は世界各地の法制度を反映していた。
法律の施行により、人数はそう多くはないものの、直ちに変化が生じた。最高裁判所統計によれば、法律の施行1年目に97人が戸籍上の性別表記を変更した[2]。
その後の17年間で、世界各地の立法府や裁判所、地域的人権裁判所や地域機関は、日本の法律が定める精神科医による診断や手術などの要件が基本的人権を侵害するとの判断を示している。
例えば、1980年に制定されたドイツのトランスセクシュアル法第8条1項では、「継続して生殖不能であること」と「外観上の性徴を変更する外科手術を受け、それによってもう1つの性の外観に明白に近似していること」が条件とされた[3]。2011年、ドイツの連邦憲法裁判所はこうした手術要件をドイツ基本法に違反すると判断した。
トランスセクシュアル本人が認識している性別の持続性と不可逆性は、外科手術による外的な性的特徴の適応度ではなく、本人が認識する性別で一貫して生活しているかによって評価できる。性別適合手術を絶対的な要件とすることは(略)、たとえ個別の事例でそれが必要とされず、トランスセクシュアルの持続性を決定する上で必要でない場合でも、トランスセクシュアルに手術を受け、健康上の不利益を甘受することを要求するものであり、行き過ぎた要件である[4]。
近年、その他の国では、トランスジェンダーの人たちへの手術要件を廃止しただけでなく、そうした法的要件下で生じた苦痛を認定している。2017年、スウェーデン政府は、これまで手術を義務付けていた法律により断種手術を受けたトランスジェンダーの人たちに、1人あたり225,000クローネ(約280万円)を補償するとの決定を行った[5]。この動きにより、スウェーデンは世界で初めて(1970年代に)法律上の性別認定に関する法律を定めた政府であるだけでなく、この法律の下で断種手術を受けた人たちに補償を受ける権利を認めた最初の政府となった。オランダ政府は1980年代に法律上の性別認定要件として断種手術を義務付けていたが、2014年にこの要件を撤廃し、2020年には被害者に補償を行うと発表した[6]。
医療専門家組織も同様に、法律上の性別認定手続きから医学的条件を削除することを各国政府に求めている。世界保健機関(WHO)が2019年5月に発表した新しい国際疾病分類第11版(ICD-11)では、「トランスセクシュアリズム(性転換症)」及び「性同一性障害」が「精神疾患」のセクションから除外され、セクシュアル・ヘルスの章が新設された[7]。各国政府は2022年までに診断コード体系を変更しなければならない。日本でも厚生労働省がすでにこのプロセスに着手している。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは2019年3月19日に厚生労働省の担当者と面会し、ICD-11に沿った性同一性障害者法の改正について話し合いを行った。厚生労働省からは日本の診断コード体系を改定するプロセスを進めているとの発言があった。しかし、本報告書執筆時点で、厚生労働省から新しい診断コード体系や「性同一性障害」の削除についての公式発表はない。もちろん厚生労働省が性同一性障害者法を改正するわけではなく、法務省と国会の責任で行われることである。
トランスジェンダー男性でNPO法人東京レインボープライド共同代表理事の杉山文野さんは、今回のWHOの方針転換について「WHOによれば私は精神疾患ではないのですが、自国の日本政府は精神疾患であるとしています(The WHO says I don’t have a mental disorder, but in Japan my government says I do.)」として、次のように述べる。
私の外見やアイデンティティにもかかわらず、私は日本では法律上は女性と認定されています。そのため、当局が身分証明書をチェックする際には、入念に調べられてしまいます。女性のパスポートなのに外見が男性で一致しないという理由で入国を拒否されたこともあります。しかし、私にとって最も辛いことは、私の子どもたちの親権者ではないということです。[2018年と2020年に、]私の女性パートナーが出産しました。私たちは子どもたちを我が家で一緒に育てています。しかし、私が何度オムツを替えようとも、何度ご飯をあげようとも、私には法的権利がありません。法的にはお手伝いする「同居人」でしかないのです。 [日本の]法律は根本的に時代遅れで、私たちが平等な権利を享受する障害となっています。世界保健機関(WHO)が性同一性障害という診断名を廃止しました。今こそ日本も改革を行うべきです。(略)この法律の名前そのものが、公式にはもう存在しない診断名を指しているからです[8]。
時間の経過とともに、法的に定められた手順を踏んで、法律上の性別を変更するトランスジェンダーの人びとが増えている。2019年には948人が法律上の性別認定を受けた[9]。
日本の世論も法の現状の先を行く。2019年11月、テレビ番組でトランスジェンダー女性がアウティングされた上で笑いものされる事件があった[10]。この「情報」番組は、出演者が「珍しい」人にアポなしでインタビューを行うものだった。ある放送回でトランスジェンダー女性の性自認を本人の許可なく話題にし、この女性を「変わっている」と紹介したのだ。ソーシャルメディアで世論の反発が起きた後、番組を制作・放映した山口テレビはこの侮辱的な事件について謝罪した[11]。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究者が、23カ国のトランスジェンダーへの世論を比較した2016年の報告書によると、日本の世論状況は、人権を認める法律上の性別認定制度を有する国の仲間入りをする一歩手前の状況だ[12]。日本からの回答者約1,000人の回答は次のとおりだった。
- 法律上の性別を変更するためには手術を義務づけるべきと答えた人はわずか13%。
- トランスジェンダーが法律上の性別を変更できるようにすることを全体として賛成する人は56%。反対は18%。
- トランスジェンダーの出産を認めることを支持する人は50%、反対は21%。
- トランスジェンダーの人たちが「精神疾患」を抱えているという考え方に同意しない人は54%、同意する人は21%。
1999年に設立された日本初かつ最大のGIDに関する専門家組織であるGID(性同一性障害)学会の理事会は2017年、法律上の性別認定のために医学措置を義務づけることに反対する立場を示した、WHOなどの国連機関による2014年の報告書を支持する声明を採択した[13]。GID学会の理事会は「性同一性障害者特例法」の施行から12年が経過したことについて次のように述べた。
最高裁発表で、2015年(平成27年)12月末までに6,021名が戸籍上の性別を変更している。一方で、全国の主要医療機関を対象とした日本精神神経学会「性同一性障害に関する委員会」調査によれば、同年12月末までに性別違和を主訴に受診したのは22,435例で、戸籍を変更した割合はその20.8%に過ぎない。全員ではないにせよ、受診者の大多数が戸籍変更を希望している実態からすれば、この数値は明らかに低い。
この声明は「〔性同一性障害者特例法〕 3 条 1 項に規定された要件、特に『手術要件』がなければ、 状況はかなり異なったものになると考えられる」と続けた。そしてその理由として「法的な性別変更に『手術要件』が規定されている状況では、医療現場で意志決定の自律性を担保することはできない」ことを指摘した。
2020年9月、日本学術会議は「性的マイノリティの権利保障をめざして(Ⅱ)―トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けてー」と題する詳細な提言を発表した。そしてトランスジェンダーの人権を守るためには、本人の性自認にフォーカスした「人権モデル」が必須であるとし、現行法を廃止して新法「性別記載の変更手続に関する法律(仮称)」の制定を提言した[14]。
日本では、トランスジェンダーの人びとや人権団体がこの法律が定める要件に反対の声を上げている。さらに法律や医学、学界の専門家も、政府が法律を変えないことに批判を強めている。ヒューマン・ライツ・ウォッチが本報告書作成に際してインタビューした人びとは、外国政府や国際的な医療基準、日本国内のアドボカシー団体や学術団体がこの問題について進展を見せているにもかかわらず、政府が性同一性障害者法を改正していないことに失望と不満を表明した。
トランスジェンダー女性で明治大学非常勤講師(ジェンダー・セクシュアリティ史)の三橋順子氏は「国際的な人権概念(性別の自己決定)に照らして、恥ずかしくない法制度を望みたい」と述べた[15]。
はりまメンタルクリニック院長で精神科医の針間克己氏は、性同一性障害者特例法が「もっぱら医学的モデル、さらにいうなら、医学概念上、過去のものとなる『性転換症』概念のモデルに基づいている。 個人の性自認を尊重する視点からではないため、尊厳を傷つける場合がある」と述べた[16]。
そして「法改正の内容によるが、手術要件の撤廃という法改正であるならば、部分的には、医学モデルから、トランスジェンダーの人権尊重というモデルへの移行という意味を持つ」と指摘した[17]。
大阪の精神科医で、トランスジェンダーの患者を診る康純氏は指摘する。
ホルモン療法を受けているトランス男性の中には、日常生活の中で子宮卵巣に対する違和感がないにも関わらず、手術要件があるために子宮卵巣摘出術を受けざるを得ない人がいる。これは手術を強要されていることになります[18]。
精神科医による診察要件について康医師は「身体的・金銭的な負担を強いるような要件を課していること。本人の意志を尊重していません」と述べた[19]。しかし変化は近いとも考えているという。「性別に対する違和感を有する人たちが特殊な人ではないという理解が広まってきていると感じます。」
京都府の府立高校教師の土肥いつきさんはトランスジェンダー女性の活動家で、トランスジェンダー生徒交流会を主催する。「特例法の5つの要件は、すべてトランスジェンダーの人生の選択肢を狭めるものです。トランスジェンダーの尊厳を傷つけます[20]。」土肥さんは断種手術要件があるせいで、日本のトランスジェンダーの人びとが自分の可能性を考えるときの幅が狭まっていると指摘する。
現在、IDの性別変更を求めるトランスジェンダーは「手術するのが当然である」と考えるようになっています。そのため「手術しない」という選択肢が考えの中からなくなっています。手術するかどうかはトランスジェンダー本人が考えることで、それはIDの変更とは別であるべきです[21]。
谷口洋幸青山学院大学教授は性同一性障害者特例法を批判し、その改正を求めると同時に、この法律を日本の歴史的文脈のなかで捉えてこう指摘する。「ハンセン病国賠訴訟においても強制不妊の強い人権侵害性は認定されているところであり、手術要件を撤廃しないことは、同じ失策の繰り返しとなる[22]。 」
谷口教授はさらに「トランスジェンダーの尊厳を守るためには、制度上の整合性ではなく、人権保障の視点から、制度の方に変更を加える方向で再検討する必要がある」と指摘した上で、改正が進まない現状をこう分析する。「特例法そのものが、性自認にしたがって生きることを保障する視点ではなく、既存の法制度にトランスジェンダーを無理やり当てはめるように設計されている」のであり、「法改正が進まないのも、社会全体の無関心、とりわけ議員の無関心・無責任に原因があると考える[23]。」
奈良女子大学副学長の三成美保教授(法制史、ジェンダー論)は「トランスジェンダーであることは『障がい』ではなく、『性に関する個性』です」と述べる[24]。
三成教授は性同一性障害者特例法について「事実上使えない法律は、適正に改める必要があります 」としたうえで、この法律が日本でのトランスジェンダーの人びとへの偏見を下支えしていると指摘する。「5要件は、トランスジェンダーの『性』を『≪逸脱≫から≪正常≫に変える』という発想に立っており、身体変更できない(変更したくない)トランスジェンダーへの偏見を助長しています[25]。」
5要件の存続は、「トランスジェンダーが潜在的に脅威・恐怖である(「なりすまし」の誘因になったり、トランス女性は女性に対する脅威になったりするという言説)」とか、「トランスジェンダーは親になる資格がない」などの偏見を正当化するものとして作用する恐れがきわめて高く、現状でもその種のヘイトスピーチがSNS上などにあふれています[26]。
しかし現行法への批判が高まる一方で、政府は診断のあり方を若干手直ししただけで、法律の根幹には依然として手をつけていない。
最高裁判所は現行法が将来的に見直されるべきことを示唆した。2019年1月、最高裁第二小法廷は、トランスジェンダー男性の臼井崇来人さん(43)を原告とする審判への判断を下した。臼井さんは、手術要件が日本国憲法に違反するとして性同一性障害者特例法自体を問題とした。
最高裁は「社会に混乱を生じさせかねないことや、長きにわたって生物的な性別に基づき男女の区別がされてきた中で急激な形での変化を避ける等の配慮」をする性同一性障害者特例法は、現時点では合憲だとした。しかし、この判決と2名の裁判官による補足意見は、共に迅速な改正の必要性を示唆するものだった。現行法を合憲としたものの、4人の裁判官からなる最高裁小法廷は、同法は「その意思に反して身体への侵襲を受けない自由を制約する面もあることは否定できない」とも記している。
うち2名の裁判官は補足意見において、臼井氏の申立ての緊急性及び日本の法律改革の必要性について以下のように述べた。「性別は、社会生活や人間関係における個人の属性の1つとして取り扱われているため、個人の人格的存在と密接不可分のものということができ、性同一性障害者にとって、特例法により性別の取扱いの変更の審判を受けられることは、切実ともいうべき重要な法的利益である」とし、「性同一性障害者の性別に関する苦痛は、性自認の多様性を包容すべき社会の側の問題でもある」と示したのである[27]。
II. 日本の法律上の性別認定制度
日本における法的性別認定は、性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成15年法律第111号。「性同一性障害者特例法」)にしたがって行われている。同法は2004年7月16日に施行された[28]。
同法は自らにふさわしいジェンダーの法的な認定を請求するすべてのトランスジェンダーの人に「性同一性障害」(GID)の診断を条件として課す。「性同一性障害者」は同法において次のように定義されている。
生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者[29]。
そのプロセスにおいて、「その診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する2人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致している」ことが求められる[30]。
法的性別認定(性別の取扱いの変更)の審判を行うのは家庭裁判所である。請求人は、性同一性障害の診断書を提出するほか、次の要件を満たさなければならない。
- 20歳以上であること
- 現に婚姻をしていないこと
- 現に未成年の子がいないこと
- 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること
- その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること[31]
性同一性障害者特例法は、法律上の性別認定手続を日本で初めて定めた法律であり、その成立は、日本政府のセクシュアル・マイノリティ及びジェンダー・マイノリティに対する取扱いにおいて、極めて重要な出来事であった[32]。しかし、同法で定められた手続は、出生時に割り当てられた性別とは異なるジェンダーとして法律上取り扱われたいと希望する日本人の権利を侵害する内容である。
米国精神医学会が1980年に『精神疾患の分類と診断の手引 第3版』(DSM-III)を刊行した際、日本の精神科医は翻訳に着手した。人類学者の中村かれんは「DSMで一貫して用いられているdisorderの語にどのような日本語を当てるべきかについての議論」があったと指摘する。「病」「症」「障害」が有力候補だった[33]。「障害」はdisorderやdisabilityと翻訳できる。1982年にDSM-IIIの日本語版が公開されるとき、トランスジェンダーの権利を擁護する人びとが望んだ曖昧さをもつ語だった。中村はこう記す。
難しさの一端は、日本の医学用語がimpairment、injury、disorder、disturbance、pathology、disabilityといった言葉を「障害」とも訳し、それぞれを必ずしも区別しないことにある。いずれにしても、DSM-IIIのgender-identity-disorderという分類名が「性同一性障害」とされ、日本のトランスセクシュアルはこの不明瞭に喜んだのである[34]。
性同一性障害(GID)という概念が日本の医療と社会に導入されたことで、トランスジェンダーの人びとが自らのアイデンティティについて話し、開示し、さまざまなサービスを利用するための説明枠組が提供された。性同一性障害診断は関連する法的枠組みが作られていく際の土台ともなり、性同一性障害者特例法に結実した。出生時に割り当てられた性別と一致しない性自認の実感を法律で認定することには個人の自由を認める面がある一方、法律そのものは国際人権法及び医学上のベスト・プラクティスと相容れないものだ。
性同一性障害者特例法は、ある集団が存在することを認め、その人びとの法律上の認定を可能にする反面、日本のトランスジェンダーの人びとにとって越えがたい壁となっている。性同一性障害の診断を得るという要件は非科学的であり、結婚しておらずかつ未成年の子がいないという要件は差別的である。また不妊にさせる手術を要件とすることは強制的な断種に該当する。法学者の谷口洋幸は2013年の論文において、「特例法は、医療上の必要性がない場合にも外科的介入を要件とすることで、社会的文脈のみならず、身体的なレベルにおいても性別二元制を堅持した」と述べている[35]。
こうした要件すべてまたは一部を性別移行の一環として履行することを望むトランスジェンダーの人びとも実際に存在する。しかし、すべてのトランスジェンダーの人びとへの義務化は国際法に反し、トランスジェンダーの人びとの基本的権利を侵害する。法が定める要件は国際的な医療・診断基準にも逆行している。本報告書で検討するように、主要な国際医療診断制度のいずれもが「性同一性障害」や「性転換症(トランスセクシュアリズム)」を精神疾患と位置づけていない現在、トランスジェンダーの人びとに診断を得ることを法律で義務づける日本のやり方は強要に該当する。
この変化は、個人に小さくない影響を及ぼしうる。都内に住むトランスジェンダー女性はヒューマン・ライツ・ウォッチにこう述べた。
私は、性別不合は精神疾患ではないと思います。でも、自分に精神疾患があると認めることでジェンダー・アイデンティティを受け入れてもらっている人はたくさんいます。もしジェンダーに不一致なことがもう精神疾患ではないのなら、自分が誰なのかをうまく説明する方法がなくなってしまうのではないかと感じる人もいるでしょう[36]。
とはいえ、現在の枠組が医療ケアと法的地位を求めるトランスジェンダーの人びとの一部に便利で好ましい方法となっているとしても、現行法の要件がすべての人に適用されるべきではない。
拷問に関する国連特別報告者は2016年の報告書で、トランスジェンダーの人びとに対し、本人にふさわしいジェンダーでの法律上の性別認定を行わないことは「教育、雇用、ヘルスケア及びその他の必要不可欠なサービスの利用の阻害要因になるなど、トランスジェンダーの人々の人権の享受に極めて重大な結果を生じさせる」と記している[37]。特別報告者は次のことに留意した。「身分書類上の性別表記の変更を認める国では、人権侵害的な要件が課せられる場合がある。例えば強制あるいはその他の本人の意思によらない性別適合手術、断種その他の強制的な医療処置が挙げられる[38]。」
日本のトランスジェンダーの人びとに性同一性障害の診断を義務づける法的要件のもとでは、不必要で恣意的かつ負担の大きい検査を課される場合が多い。精神科医による診断の義務、及び結婚をしておらず、生殖腺がなく、未成年の子がいないことを請求人に求める法的要件は本質的に差別的である。こうした条件、なかでもそれを満たすために多くのトランスジェンダーの人びとが甘受しなければならない不当な扱いもまた、残虐で非人道的な取り扱いであり、トランスジェンダーの人びとの健康への権利の侵害に該当する。同法は、自らにふさわしいジェンダーで法律上認められたいと希望するトランスジェンダーの人すべてに対し、精神疾患であるとの診断を受け、認定に先立つ20年間のいかなる時期にも子を持たず、結婚していないことを強制している。これによって、多くの戸籍記載変更希望者に対し(もしこれらの要件が存在しなければこうした手順を経ることなどない人びとも含めて)身体を変形させる外科的介入を受け、不妊処置をとり、現在の婚姻関係の解消に向けて検討するよう強いている。
日本が定める法律要件はトランスジェンダーである子どもたちにとってとりわけ有害である。法律上の性別認定を得られる最低年齢は20歳と定められている。そして、法的性別認定(戸籍記載変更)は「自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思」を有する人にだけ許される[39]。これは、子どもたちに手術が不可欠だと思わせるとともに、「男性」と「女性」のあるべき身体や振る舞いに関するジェンダー・ステレオタイプに合わせるよう、強い圧力を加えるものだ。
こうした要件設定は、子どもの最善の利益が、当人に影響を及ぼす行政上・法律上の決定のすべてで第一に考慮されるべきとする原則と一致しない[40]。性同一性障害者特例法は、子どもがもつ身体の完全性(インテグリティ)、プライバシー、自律への権利に負の影響を及ぼす。これらの問題は、ジェンダーに不一致(gender non-conforming)な子どもに関連する性同一性障害者特例法の解釈について文部科学省が示した文書や[41]、性同一性障害者に対する精神科医向けガイドラインにも反映されている[42]。
日本の現行法上の性別認定手続はトランスジェンダーの人びとの基本的権利を侵害するものだ。同法はトランスジェンダーであることを、実際には存在しない疾患として扱っている。トランスジェンダーの人びとは、法律上の認定を得るための必要条件として、その疾患を有することを証明しなければならない。現行手続は、結婚している、未成年の子がいる、または生殖能力をもつトランスジェンダーの人びとを法律上の認定から排除している。この手続は差別的なだけでない。自らの性自認について法律上の性別認定を望むトランスジェンダーの人びとの多くに対して、当人が望まないかもしれない侵襲的な外科処置を受けることを検討するよう仕向け、場合によっては家族と別れることを求めるものでもある。
神奈川県に住むトランスジェンダー男性がヒューマン・ライツ・ウォッチに対して述べたとおり「人としての尊厳を傷つける制度であることは間違いない」のである[43]。
精神科医による診断の強制
性同一性障害者特例法は、自らの性自認について法律上の認定を求める日本のトランスジェンダーの人びとに対して、性同一性障害の診断を得ることを義務づけている。日本には、トランスジェンダーという性自認は1つの精神医学的な状態と考え、それに基づきサービスを求める当事者もいる[44]。しかし、こうした枠組はトランスジェンダーの人びとにスティグマを負わせるものでもある。ヒューマン・ライツ・ウォッチがインタビューした人の多くが、トランスジェンダーの人びとを診る精神科医も含めて、このスティグマについて語った。私たちの調査は、性同一性障害の診断書の取得に関連するプロセスについて、それ自体負担が大きく、人権侵害的な事例もあることを示す。
ヒューマン・ライツ・ウォッチがインタビューしたトランスジェンダーの人びとは、性同一性障害の診断を得るにあたってさまざまな経験をしていた。例えば、精神科医を訪ねたところ初診で診断書が発行されたケースがあった一方で[45]、病院スタッフや精神科医が患者に対して長く、屈辱的な手続を強いる場合もあった。
日本精神神経学会が2012年に公開した「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第4版)」(2018年1月最終改訂)は、性同一性障害の診断を行うために3つのテストを行うことを推奨している。
- ジェンダー・アイデンティティの判定。個人からの情報聴取などによる。
- 身体的性別の判定。染色体検査、ホルモン検査、内性器ならびに外性器の診療ならびに検査、「その他担当する医師が必要と認める」検査が実施される。
- 除外診断。「反対の性別を求める主たる理由が,文化的社会的理由による性役割の忌避やもっぱら職業的利得を得るためではないこと」などが確認される[46]。
診察の期間に言及があるのは最初の検査のみで、「診断に必要な詳細な情報が得られるまで行う」とされている[47]。私たちの調査によれば、一部の請求人はこの手続にかなりの時間を取られているのである。
都内に住むトランスジェンダー男性、M・キヨシさん(24)はヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、4年前、20歳の時に性同一性障害の診断を得るのに1年かかった経験を話してくれた。都内のジェンダー・クリニックに初診で行ったところ、精神科医は個人史を書いてくるように言い、それから幼児から現在までの自分の写真を持参して数週間後に再診に来るように告げられた。「行くたびに100個くらいの質問に回答しなければなりませんでした」とキヨシさんは言う。そして質問票の中身は、ジェンダーに特有の振る舞いや外見についてのステレオタイプな理解を尋ねるものだったという。
すべてジェンダーに関する自由記述式の設問でした。『私が小さいとき、周りから____と言われていた』とか『もし親が亡くなったとしたら、私は____と反応するだろう』といったものです。
キヨシさんの通院は6カ月に及んだ。「最初に病院に行ったとき、先生はすぐに診断書を出すと言っていました。でも2週間毎に来るように言われ、6カ月が過ぎても、まだ時間が必要だと言われました。まだ[診断書が]出せないからと言って、また来るように言われたのです。」6カ月後、諦めて都内の別の病院に行ったところ、そのジェンダー・クリニックの精神科医から言語セラピー・セッションとインタビューをさらに6カ月受け、ようやく性同一性障害の診断が出たという。「クリニックのスタッフはプロセスのすべての段階で『本当ですか?』と私に絶えず尋ねてきました」と、キヨシさんは述べた[48]。
トランスジェンダー男性のD・ヤスヒロさん(30)は、2カ月間に6回、自宅から520キロ離れたジェンダー・クリニックに通院し、精神医学検査を受けた。「画を見せられ、それについてセラピストと何度も話をするのです。おそろしく時間がかかってくどいばかりでした」と、ヤスヒロさんは語った。「その画には人物が複数描かれていて、どれが家族に似ているかと質問されました。」性同一性障害の診断書を取ってすぐ、京都に近いクリニックに行ってホルモン療法をしたいと伝えたところ、同じテストを1からやらなければいけないと言われた。「検査はセカンド・オピニオンのためだと言われました。それでそのセカンド・オピニオンで認められた後、外部の精神科医のサード・オピニオンを得るように言われたのです[49]。」
石川県在住のトランスジェンダー女性のT・ハナエさん(29)は、ヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、診断を得るのにほぼ1年を要したと述べた。「精神科医のところに丸1年近く通い、2010年の年末まで通い続けました。2010年12月になってようやく性同一性障害の診断が取れたのです[50]。」
強制不妊(断種)と手術の強制
トランスジェンダーの人びとに対し、外見と身体の機能を変更する手術を求めるという法律上の要件は強要に該当する。法律上の認定を得るために外科処置を強制されることそのものが強要である。また手術を受けてからでなければ、婚姻などの権利を享受できないことも強要である。トランスジェンダーの人びとはヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、日本における手術要件が著しい負担になっていると述べた。そうした処置の一部を望んでいる人ですら、法律の求めゆえに手術台にのることを急かされたと感じていた。
「それは戸籍も変えたいし、不愉快なことがない暮らしをしたいけれど、あまりにも壁が高すぎる。ただ生きているだけなのに、どうしてこんなに精神や経済のリスクを背負わなければならないのか」と、都内在住のトランスジェンダー女性は思いを述べた[51]。「1回始めたら、途中でやめることはできない。この手術はとても大きい手術で、リスクも高い。そして、一生メンテナンスしないといけなくなる。」
結婚や結婚に伴うメリットなど、他の権利へと通じる道が手術だけとなっている人もいる。都内在住のトランスジェンダー男性のG・タカユキさん(24)は言う。「結婚すると、配偶者控除が受けられますね[52]。」戸籍上の性別を変更したいが、要件である手術は望んでいないのでまだ受けていないと話した。「税金のメリットのために、手術を強要されているような気分ですね。税制面含め、結婚するとメリットがたくさんありますから[53]。」
多くの人にとっては手術に伴う身体へのリスクと影響が大きな障害となっていた。「もうひとつ大きいのは、手術をすれば不妊が確定すること」と、手術を受けていない都内在住のトランスジェンダー男性(25)は指摘する。「子どもか、自分の性別の戸籍かどちらかを選べと言われているようなもの。どうしてこんな条件があるのかとずっと不思議でした。私たちは、性器を露出して毎日生活しているわけではないのに[54]。」
神奈川県在住のトランスジェンダー男性は、家族の理解もあり、自分がどうしたいかが明確だったので、自分の性別移行はうまく行ったと感じていると話す。それでも、法律上の性別認定のために手術が法的に求められていなければ、その手術を受けることはなかったと、ヒューマン・ライツ・ウォッチに述べた。「なぜこの健康な体にメスを入れなければいけないのか、という疑問を抱えながらの手術でした。ただ、女性の戸籍は受け入れ難くて、そこが一番の問題だったので、必然的に手術をして戸籍変更する他ありませんでした[55]。」このトランスジェンダー男性はこうも述べる。
もし手術要件がなかったとしたら、もっと吟味して比較して、本当に情報を集めて、自分なりに本当に腑に落ちた段階で決断していた。でも、必須条件ということで、自分も働いたりする中で、とても緊急のことでなるべく早く変えたかったので、本当に腑に落ちてはいないまま、手術せざるをえませんでした[56]。
福岡在住のトランスジェンダー男性は言う。
僕自身は生理は嫌だし、(子宮を)取るということは決めていました。けれども周りの友達はオペをするとかいうのは親からの反対が大きくて。オペとなるとどうしても一大事です。命に関わることでもあるし。オペなしでも、戸籍が変えたいと話せる環境にしてあげたい。なんの悪いところもない体にメスを入れることは、親からすれば理解できないことなんでしょう[57]。
ヒューマン・ライツ・ウォッチがインタビューした日本のトランスジェンダーの人びとからは、不妊になることなしに自らの性自認が法的に認定されるという選択肢があるなら、そうはしなかったとの声があった。
例えば、大阪在住のトランスジェンダー男性(30)のD・ヤスヒロさんは、自分の弟に次女が生まれたことで、男性としての法律上の性別認定を求める中で、自分のリプロダクティブ・ライツがいかに損なわれるかについて深く考えたという。「1人目の姪が生まれたときまだ卵巣があったので、私はホルモン注射を止めて、子どもが産めるようにしておきたいとすら考えたのです」と、ヤスヒロさんは言う。
性別適合手術を受けるために病院の待合にいるときですら、子どもを持つことを考えていました。男性として生きたいと思うことに迷いはありませんでした。でも赤ちゃんを産むことができるようにもしておきたかったのです。自らを法律で認めてもらうことと、自分の身体を望むようにしておくこととのどちらかを選ばなければならなかった。
ヤスヒロさんは続けて言う。「手術を受けたいトランスジェンダーの人びとは多いと思います。でも、それを戸籍変更の必要条件にするということは、私たちの生殖の権利が奪われるということなのです[58]。」
ヤスヒロさんの語りにはっきり表れているように、手術要件は、法律上の性別認定を求めるトランスジェンダーの人びとに対し、法の下で人として認められる権利を行使するか、身体の自律性への権利を行使するかという受け入れようのない選択を求めている。
手術を受けて不妊になったトランスジェンダー男性は言う。
当時は、とにかく戸籍変更で必死で、そこまで全然考えが回っていなかった。本当に早くって。でも今考えると、なにかしらの形で子孫を残す可能性を残せたとしたら、しておけばよかった、と思います。本当にいろいろなことを考慮する暇もなかったんです[59]。
手術は一切していないトランスジェンダー女性はこう述べた。「やはり、自分は子どもが欲しいと思う。もちろん、養子などの方法もあるけど、やはり自分の遺伝子を持つ子どもが欲しいと思う。」この女性は戸籍上の性別を「男性」のままにすることを選んだと説明してくれた。それは困難や差別を伴うものだが、女性として認定される要件として法が求める手術を受けたくはなかったと言う。「もし、このまま戸籍上も女性になる場合、生殖腺の機能を永遠に欠くようにしなければならない。自分は女性だけど、子どもの母親と名乗る事が出来ない。手術か子どもか。選ぶことの出来ない2つの選択肢。絶望です[60]。」
法律上の手続きを検討中の人からは、性別を変更したいという強い思いの一方で、処置への恐怖を感じるとの声があった。例えば、大阪在住のトランスジェンダー女性のI・タマキさん(27)は言う。
ハードルが高すぎます。アメリカでは手術しなくても性別が変更できるというのを読みました。ただ家族登録の性別を変えればよいと[61]。もし日本でもそうなれば、いますぐ性別を変えますよ。政府がなぜあれほど厳しい条件を課すのかわかりません。私は法律上の性別を変えたいんです。でも手術はリスクがもの凄く高い。だからどうするかまだ決めていません[62]。
R・ノリコさん(22)はこう述べる。「身分証明書の性別を変更したいのです。戸籍の性別を変えるには手術が必要です。それは本当に大きなプレッシャーなんです。」また金銭的な負担が気になると言う。「かなりの費用が必要ですが、両親の援助は期待できません。トランスジェンダーの友人たちは手術を受けることになっていますが、私はできない。まるで独りぼっち、取り残されたような気分です。」ノリコさんによれば、地元のトランスジェンダーのグループにいる人はみな「手術についてのプレッシャーを何らかの形で感じています。そのうち手術をしなければならないんだとみんな思っています。本当にきついことです[63]。」
M・キヨシさんは、1年かけて2つのクリニックを受診した後に性同一性障害の診断を得た。ヒューマン・ライツ・ウォッチがインタビューした時にはホルモン療法を受けていたが、手術はまだだという。「理想を言えば、いますぐにでも法律上の性別を変更したいのです。これまでの手続はすべて、自分が望んでいない、身体に大きな負担を与えるものばかりです[64]。」
手術要件が日本のトランスジェンダーの人びとの現実を反映していないことを強調する意見もあった。ある都内在住のトランスジェンダー女性は述べた。「手術しても、生きやすくなる保障はない。別に股間を見せて歩き回っているわけでもないわけだから。そんなすごいことでもないのだから[65]。」
年齢制限
性同一性障害者特例法は、日本の成人年齢である20歳(2022年4月からは18歳)未満のトランスジェンダーの人びとについて、法律上の性別認定を一律に認めていない。20歳未満でも診断を受け、または場合によっては性同一性障害の「予備的診断」を得ることができている。インタビューの回答者からはヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、自らの性自認に基づくトイレの使用や制服の着用など、性自認に基づく教育を受けるための働きかけを成功させるために、性同一性障害の診断書を使ったとの声が聞かれた。
成人すれば法律が求める外科処置を親権者の同意なしに受けることができる。性同一性障害の診断(診断までの期間は人によってまちまちだが)を得た後、その後行われる必要な医学措置には何年もかかることもあり、相当な費用も発生する。その結果、たとえ10年以上前から自らの性自認を表明し、法律上の性別移行を望んでいたとしても、法律上の性別認定は20代半ばにならなければ行うことができないこともある。
しかし、性同一性障害の診断と医学的介入の要件を廃止しなければ、法律上の性別認定の最低年齢を引き下げるだけでは不十分だろう。ジェンダーに不一致(gender non-conforming)な子どもたちは結局法律上の性別認定を利用することができず、結果的に人権侵害に苦しむことになる。さらに、成人として法律上の性別認定を行うための厳しい医療的要件は、若者に相当の不安を生じさせている。このことはヒューマン・ライツ・ウォッチが行ったインタビューの証言にはっきり表れていた。
日本が性別認定に年齢制限を設けていることは差別的であり、子どもの最善の利益の考慮を妨げるものである。この制限は、自らのジェンダーを探究し、疑問を持っている子どもたちに有害な影響を与えうる。厳密な年齢制限はまた、自らの性自認に基づいた通学を望むトランスジェンダーの子どもにとって、教育への権利の侵害となりかねない。以下で論じるように、世界トランスジェンダー・ヘルス専門家協会(WPATH)は性別認定に関する2015年の声明で、「適切な法律上の性別認定がトランスジェンダーの若者にも利用できるようにすべきである」と述べている[66]。
日本の教育制度で考えると、国がトランスジェンダーの子どもに法律上の性別認定を認めていないことは、当事者が差別と品位を傷つける取扱いを受ける原因ともなっている。ジェンダーを探求・表現するために、情報や支援、安全な場所など、インクルーシブかつサポーティブな学校のすべての要素を必要とする若者にとって、年齢制限と厳格な医療的要件は深刻な悪影響となるものである。さらに言えば、医療処置が現在義務づけられていることは、ジェンダーに不一致(gender non-conforming)な子どもに対して、強制されなければ望むことのない医療処置を若い年齢で受けるようにとの強い圧力を与えることにもなりうるのである。
日本の学校ではステレオタイプに基づくきわめて根深い男女分離が見られる。中学校と高校ではほぼすべてに男女別の制服の着用が義務づけられており、男女別の学校活動も多い[67]。自らの性自認を探究していたり、トランスジェンダーとしての自認をもつ子どもにとって、こうした環境は厳しいものとなりうる。トランスジェンダーの高校教員の土肥いつきさんはこう指摘する。
日本の学校制度はきわめて厳しい性別二元制社会です。生徒に対して、自分がどの性別に属し、また属していないのかを、隠れたカリキュラムですり込んでいます。学年が進み、性別による区分けが厳しくなると、トランスジェンダーの子どもたちはひどく苦しみ始めます。隠したり嘘をついたりするか、自分らしく振る舞っていじめや排除の標的になるかのどちらかです[68]。
さらに、性同一性障害者特例法が、自らの性自認が法律上認定されることを望むトランスジェンダーの人びとに対して、精神医学的・外科的介入を義務づけていることは、若者に対して不安を与える要因になりうる。インタビューに応じてくれた人びとの多くは、自らの性自認ではなく出生時に割り当てられた性別に基づいて身だしなみをするよう強制された時に味わった学校での否定的な経験は、大学生活や職場といったその後の生活での不安を煽るものだったと述べた。まだ14歳のトランスジェンダーの子どもたちすら将来におびえていた。性同一性障害者特例法が求める医療処置を望んではいないけれども、それが現在では社会的認定を受ける唯一の方法であり、長年にわたる虐待や差別、排除にけりをつける方法なのだと語る子どもたちもいた。
2015年に文部科学省は全国の教育委員会などに対し「性同一性障害に係る児童生 徒に対するきめ細かな対応の実施等について」という通知を出している[69]。これはトランスジェンダーの子どものケアの責任が学校にあることを示した、文部科学省からの真剣なメッセージを伝える通知である。しかしこの通知では、診断と医療機関がジェンダーとセクシュアリティに関する主要な情報源として重んじられている。例えば、通知にはこのようにある。「医療機関による診断や助言は学校が専門的知見を得る重要な機会となる(…)」。こうした表現は、政府が依然として、性同一性障害者特例法に定められたトランスジェンダーの人びとの性自認の理解について、有害な病理学的モデルに依拠していることの表れである。
2015年通知は文部科学省による助言という位置づけで、学校に示された支援事例集も拘束力のない助言にすぎない。ヒューマン・ライツ・ウォッチが日本国内のトランスジェンダーの子どもたちに聞き取り調査を行ったところ、自らの性自認に従った設備利用をしたいというトランスジェンダーの子ども・生徒の申し出について、教職員の対応は人によってまちまちであることが示された。当人によるアイデンティティの申告のみに基づく法律上の性別認定の権利を実現することで、トランスジェンダーの子どもを取り巻く状況を大幅に向上させることができるであろう。
日本政府は、20歳以前に法律上の性別変更を行うことが、多くのトランスジェンダーの子どもの最善の利益でありうることを認めるべきだ。法律において、トランスジェンダーの人びとの法的性別認定について確たる年齢制限は設けられるべきではない。そうではなく、1人ひとりの子どもの個人的な環境が、しかるべき当局によって評価され、法律上の性別変更がその子の最善の利益になるかどうかが判断されるべきだ。政府はまた、トランスジェンダーの子どもに関する学校関係の方針・指針を改め、自らの性自認に従った制服の着用、学校設備の利用、活動への参加にあたり、いかなる子どもも性同一性障害の診断書を求められないことを明確に示すべきである。
家族関係と親子関係による差別
法律上の性別認定(戸籍記載変更)を請求する者全員に対して、現に婚姻をしていないことを求める日本法の規定は、戸籍記載の変更を望むトランスジェンダーの既婚者に暗に離婚を義務づけるものである。これは性別移行の結果生まれる同性婚状態が日本では認められていないからだ。こうした要件は差別であり、国連人権理事会の2011年と2014年の報告書など、主要な人権機関が非難しているところである。
トランスジェンダーの人びとが自らの性自認を法律上認めて欲しいと望む場合、現に未成年の子がいないことという規定は、トランスジェンダーの人びとの私生活・家族生活の尊重を受ける権利、家族を形成する権利を侵害するものであり、そうした理由による差別である。
2008年の性同一性障害者特例法改正により、法的性別認定(戸籍記載変更)を求めるトランスジェンダーの人びとには、現に未成年の子がいてはならない、とされた(改正前は「現に子がいないこと」とされていた)。この改正の事実は、政府が法律改正を検討する姿勢があることを示してはいるが、この改正では不十分である[70]。
社会における強い同調圧力
高校教師でコミュニティリーダーでもある土肥いつきさんはヒューマン・ライツ・ウォッチに対し「社会の変化のひとつの原因は、トランスジェンダー自身が声をあげたこと、またその声を広げる人がいたからだと思います」と述べる[71]。そして、アイデンティティ・ベースの法律上の性別認定に向かう世界的な流れは日本の政策議論にも影響を及ぼしていると指摘した上で、現状の問題点を指摘する。
法改正が進まないのは、日本のジェンダーギャップ指数が低いことや選択的夫婦別氏制度が成立しないことと関係していると思います。つまり、日本は性別二元制と異性愛規範、さらに家父長制がきわめて強い社会です。特に、政権与党やその支持者にその傾向が強く見られます[72]。
教育機関は特に注目を集めている。
ここ数年で、国立女子大学2校すべて(お茶の水女子大学、奈良女子大学)と私立女子大学2校(宮城学院女子大学、日本女子大学)が、トランスジェンダー学生の入学を許可すると表明した。そして2020年6月には、日本で最も歴史のある女子大学である日本女子大学が「様々な違いがあっても不当な扱いを受けることのない、人権の尊重される社会の実現に貢献する」(篠原聡子学長)との認識を示し、トランスジェンダー女子学生を包摂する動きに加わった[73]。
これら4大学は、トランスジェンダー女性の教育権を尊重する方針をとることによって、トランスジェンダー女性にも平等な権利があり、他のすべての人と同様に高等教育を受ける機会が与えられるべきであるとの認識を示している。
2016年にヒューマン・ライツ・ウォッチは、日本の学校でのLGBT生徒へのいじめの実態を明らかにする報告書を発表した[74]。同報告書では、教育のアクセスに関してトランスジェンダーの生徒が経験する大きな障壁について言及するとともに、文部科学省がこの問題について近年示した方針・指針なども取り上げた。トランスジェンダーの生徒が直面する問題に文部科学省が対応する姿勢を見せていることは、確実に若者の成長の助けとなっている。しかしこうした方針・指針も現行法に基づくものにとどまっている。つまりトランスジェンダーの生徒を「性同一性障害の生徒」として捉えている。
こうした政策上の障壁に加えて、日本の学校文化がジェンダー規範に依然として厳密なことも問題だ[75]。日本の学校の大半では、制服着用やトイレ使用、学校で与えられる情報、その他ジェンダー規範を強調するメカニズムなどで、厳密なジェンダー規範に従うことが学校の方針となっている。
学校での活動も、性別役割の強制度の違いこそあれ、男女別は典型的といえる。こうした標準システムがトランスジェンダーやジェンダーに不一致(gender non-conforming)な生徒に引き起こす不安には強いものがある。ある中学生はこう話してくれた。「学校は性別で分けられることが本当にたくさんあります。出席番号、制服、座席表や髪の長さまで[76]。」日本の教育が専門の人類学者ピーター・ケイヴによれば、小学校においてさえも、子ども・生徒たちの待遇や立場的な状況のジェンダー差ははっきりしている[77]。
2016年と2019年の報告書で詳しく述べたように、学校でもいまだに制服や外見についての厳しい校則が是認されている。近年、こうした校則を見直す動きも一部には出てきている。
2021年、大阪地方裁判所は地毛が茶色い元女子生徒の賠償請求を認めた。高校では髪の毛の色は黒い子どもがほとんどで、この元女子生徒も地毛の茶髪を黒染めしていたこともあったが、この元女子生徒は自分の髪が茶色いのは生来のものと説明したにもかかわらず、学校側は毛根を検査し、染色していると決めつけて、髪の染色や脱色を禁止する校則に違反しているとして繰り返し指導した。そして学校側は元女子生徒の机を教室から撤去し、名簿から氏名を削除した。元女子生徒は33万円の賠償金を勝ち取った一方、裁判所は頭髪に関する校則は合法という判断を下した[78]。この訴訟はトランスジェンダーに直接かかわってはいないが、トランスジェンダーの子どもたちが学校で味わう経験を反映しており、同調を強いることによる犠牲を示している。
III. 日本の法制度におけるトランスジェンダーの人びとの取扱いに関する最近の進展
ヒューマン・ライツ・ウォッチが知る限り、日本の法律上の性別認定制度の手術要件を直接争点として個人が提起した訴訟は1件だけである。2018年2月に広島高等裁判所岡山支部は、トランスジェンダー男性の臼井崇来人さん(43)を原告とする審判に対して判断を下した。臼井さんは、手術要件が日本国憲法に違反するとして性同一性障害者特例法自体を問題とした。
広島高等裁判所は、性同一性障害者特例法は混乱を避けるためにあると次のように判示した。
特例法に基づいて性別の取扱いの変更がされた後、元の性別の生殖能力に基づいて子が誕生した場合には,現行の法体系で対応できないところも少なくないから、身分法秩序に混乱を生じさせかねない[79]。
そして同裁判所は、「元の性別の生殖能力等が残っているのは相当ではない」との判断を示した[80]。本件決定は国際人権法に違反しており、有害で差別的かつ時代後れのパラダイムの存続に棹差すものだ。
近年の判例から読み取れるのは、ある一部の人びと---トランスジェンダーの人びと---を権利主体として認めつつ、当事者が実在しない「性同一性障害」に罹患した人として理解する法律を解釈する複雑さだ。しかしながら、こうした枠組の下でも、トランスジェンダーの人びとは差別事案に訴訟を提起し、多くの勝訴判決を勝ち取っている。
次に示す判例は包括的なものではないが、その例証となるものだ。一部は判決が確定しておらず、公に得られる情報が限られている事案もある。
2002年6月 |
東京地方裁判所会社での差別事件 |
旅行ガイドブック等を発行する会社に勤務していた会社員は性同一性障害の診断を受けた。女性は会社に対し、女性として働くという労働者の権利を尊重してほしいと訴えた。しかし会社側に拒否されたので女装して出勤したところ、「職場秩序を乱した」として懲戒解雇されたのである。 判決では会社による懲戒解雇が無効とされた。裁判所は女装が他の社員の混乱を生じさせるとした会社側の主張を一理あるとした。しかし会社員は「女性としての行動を抑制されると、多大な精神的苦痛を被る状態」にあり、会社側には従業員らの「理解を図ることにより、時間の経過も相まって(このような違和感や嫌悪感を)緩和する余地が十分にある」との判断を示した[81]。 |
2014年4月 |
大阪家庭裁判所特別養子縁組審判 |
大阪家庭裁判所は、トランスジェンダー女性による特別養子縁組の申し立てを認めた。GID(性同一性障害)学会によれば、この手続は2004年の性同一性障害者特例法施行以降、手続き的には申立可能となったが、トランスジェンダー女性に特別養子縁組が認められたのは初めてであり、これにより女性は日本で初めて法的に「母親」となったトランスジェンダー女性となった[82]。 |
2014年9月 |
静岡地方裁判所 浜松支部 ゴルフクラブ入会許否事件 |
静岡県湖西市内の株主会員制ゴルフクラブが、法律上の性別を男性から女性に変更したトランスジェンダー女性(59)の入会申込を拒否した事件。女性は公序良俗に反する行為であるとしてこのゴルフクラブを相手に損害賠償請求の民事訴訟を起こした。 裁判所は原告の請求を一部認容した上で、判決文で「性的少数者への差別を明確に批判する」とし、「被告が被った精神的損害は、看過できない重大なものといわざるを得ないと述べた[83]。しかし裁判所はこうも記している。「性的少数者であることは趣味や嗜好ではなく、本人の意思とは関係なしに患われる病気であることは社会においてよく理解されている。性同一性障害という疾患ないしその治療行為を理由とする不合理な取扱いが許容されないのは、他の疾患を理由とした不合理な取扱いが許容されないのと同じである[84]。」 裁判所はゴルフクラブを経営する会社に対し、慰謝料と弁護士費用合わせて110万円の損害賠償を命じた。 |
2015年11月
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東京地方裁判所職場でのトイレ利用と嫌がらせ事件 |
経済産業省職員が、自分の性自認に基づくトイレ利用を禁じられ、上司から性別移行に関して嫌がらせを受けたとし、国を相手に処遇改善と損害賠償を求める裁判を起こした[85]。2019年、東京地方裁判所は原告女性の訴えを認め、同省に132万円の支払いを命じる判決を出した。これは、性的指向や性自認に関する職場差別を認めた判決とされる。江原健志裁判長は、こうした制限が「原告がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができることという重要な法的利益を制約するものであるということになる」とした[86]。 |
2016年6月 |
名古屋地方裁判所 トランスジェンダー社員へのカミングアウト強制事件 |
女性の名前に変更した愛知県の会社員が、職場でカミングアウトを強制され精神的苦痛を受け、うつ病を発症したとして、勤務先の愛知ヤクルト工場に330万円の損害賠償を求める訴訟を名古屋地裁に起こした[87]。 |
2017年6月 |
京都地方裁判所 トランスジェンダー更衣室使用拒否事件 |
京都市のトランスジェンダー女性が、京都府内のフィットネスクラブで、性別適合手術前の性別に基づき男性更衣室を利用することを求められたとして、運営会社のコナミスポーツクラブを相手に起こした損害賠償請求訴訟。和解が成立したが、具体的な和解条項は公表されていない[88]。 |
IV. 性自認、法律上の性別認定、人権基準
国際人権基準では、トランスジェンダーの人びとのジェンダーの再割り当てに関し、法的手続と医学措置の分離が必要であると考えられるようになってきた。
ジュネーブにある国連人権理事会で2017年から18年にかけて行われた日本政府に対する普遍的定期的審査(UPR)において、ニュージーランド政府は、日本は「性同一性障害者特例法の見直しを含め、性的指向・性自認に基づく差別に対処するための行動をとるべきである」と勧告した[89]。日本政府は同勧告を「支持する(supporting)」と表明した。これは2022年予定の次回普遍的定期的審査までにこの勧告を実行するコミットメントを示したことになる[90]。
2018年の国連総会に提出した報告書で、性的指向と性自認に関する独立専門家のヴィクトール・マドリガル-ボルロス(Victor Madrigal-Borloz)は次のように述べている。
法律上の認定を行わないことは、国家の義務の根本的な破綻とも言えるほどに、当事者のアイデンティティを否定するものだ。ある研究者はこう述べた。国がトランス・アイデンティティへの法的なアクセスを否定するとき、実際に行っているのは、正しい国民とは何かという理解の発信なのである[91]。
市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)は、すべての人の平等な市民的及び政治的権利(第3条)、法の下に人として認められる権利(第16条)、私生活と家族への権利(第17条)、婚姻できる年齢の人が婚姻をし、かつ家族を形成する権利(第23条2項)を規定している[92]。
締約国は自由権規約の下、性を含むいかなる理由による差別なく、すべての人びとに法律の下の平等と法律による平等の保護を確保する義務を負う(第26条)。自由権規約委員会は、自由権規約について締約国の履行状況をモニタリングする国際的な専門家機関として政府に対し、自らのジェンダーを法律上認定される権利などトランスジェンダーの人びとの権利を保障するとともに、締約国に性自認(ジェンダー・アイデンティティ)を法律上認定する際の人権侵害を伴う要件や不均衡な要件を撤廃するよう明示的に勧告してきた[93]。
国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は2012年、性的指向及び性自認を理由とする暴力及び差別の撤廃を求める2011年の人権理事会決議の求めにより作成された報告書で、「性別変更を認める国の法令では、黙示的または明示的に、その条件として申請者に不妊手術(断種手術)を義務づけることが多い。法的性別認定を求める場合に婚姻していないことを要求する国もあるが、これは当人が婚姻中の場合は離婚しなければならないことを意味する」と記した[94]。
拷問に関する国連特別報告者は2013年、「多くの国で、トランスジェンダーの人びとは、自らが希望するジェンダーを法的に認定される必要条件として、多くが希望しない不妊化手術(断種手術)を課されている」と指摘[95]。特別報告者は、こうした強制不妊(断種)を、差別されない権利や身体の完全性(integrity)などの人権への侵害とみなす流れに留意した上で、各国政府に対し「事情を問わず強制・強要された不妊(断種)をすべて違法とし、周縁化された集団に属する個人に特別な保護を与えること」を求めている[96]。
2014年の共同声明で、WHO、OHCHR、国連合同エイズ計画(UNAIDS)、国連開発計画(UNDP)、国連児童基金(UNICEF)、国連人口基金(UNFPA)はこう述べている。「加盟国が負う健康への権利の尊重義務は、加盟国に対して差別的実行を差し控えるよう求めるものである。この義務には、障がい者やトランスジェンダー及びインターセックスの人びとの権利、これらの人びとが自身の生殖能力を保持する権利を尊重する義務も含まれる[97]。」これらの国際機関は各国政府に対し「完全かつ自由で、十分な情報が与えられた意思決定を法的に保障し、強制・強要された、または非自発的な不妊(断種)を廃絶し、この点に関する法律や規制、政策を再検討、改正、発展させる」ことを求めた[98]。
性的指向及び性自認に関する2014年の国連人権理事会決議によるマンデートに基づき作成された2015年の報告書で、OHCHRは各国に対し、「申請に基づき、望む性別を反映した法的な身分証明書を発行すること、不妊(断種)や強制的な治療、離婚など人権侵害を伴う要件の削除」を直ちに開始するよう勧告した[99]。
WHO、UNDP、米国際開発庁(USAID)、米大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)、アジア太平洋トランスジェンダー・ネットワーク、及びヘルス・ポリシー・プロジェクトが共同発表した「アジア太平洋地域のトランスの人びとに対する包括的ケアの提供に関する基本構想2015」は、政府に対して「医療要件やいかなる理由による差別もなく、各人が自己決定した性自認を十分に認めるために必要なすべての立法上、行政上、及びその他の措置を講じる」よう勧告している[100]。
同様に、性的指向及び性自認に関する国際人権法の適用に関する原則(ジョグジャカルタ原則)の第3原則は、次のように述べている。
何人も、自己の性自認の法的承認のための条件として、性別適合手術、不妊またはホルモン療法などの医療処置を強制されない。いかなる地位(婚姻または親であることなど)も、個人の性自認の法的承認を妨げるために援用されない。何人も、自己の性的指向または性自認を隠匿、抑圧または否定する圧力をうけない[101]。
国際的な医療専門家団体は近年、法的性別認定に関する医療モデルに反対の立場を強めてきた。国際的な学際的専門職組織WPATHは、トランスジェンダーの人びとの健康につき、エビデンスに基づく診療、教育、研究、権利擁護(アドボカシー)、公共政策、そして尊重の推奨を目的とし、全世界に700人以上の会員を擁する団体である。WPATHは2010年の声明で、法律上の性別認定から不妊(断種)要件を外すよう求めていた[102]。声明は次のように述べる。
いかなる人も、自己のアイデンティティの認定条件として手術や断種を求められるべきではない。身分証明書に性別表記を要する場合には、その表記は、生殖能力と関係なしに、その人の実感に基づく性別を認定すべきである。WPATH理事会は、政府やその他の当局に対し、アイデンティティの認定における外科処置要件を削除するよう強く求めるものである[103]。
2015年にWPATHは声明を更新し、強制不妊(断種)を重ねて非難するとともに、法律上の性別認定のために課される、きわめて困難かつ医療化された手続への批判をさらに広げてこう記した。「いかなる医学的・外科的・精神保健的治療及び診断も、個人のジェンダー・アイデンティティの適確な指標になるものではない。したがって、法的な性別変更の要件とされるべきではない」。また「婚姻の有無や親であるかどうかが、法律上の性別変更認定に影響を及ぼすべきではなく、また、適切な法律上の性別認定がトランスジェンダーの若者に提供されるべきである[104]。」
そして2017年にWPATHはポジション・ステートメントを更新し、次のように重ねて述べた。
WPATHはさらにすべての人が自らのジェンダー・アイデンティティと一致する身分証明書類を持つ権利を確認する。ここには法律上の性別を付与する書類も含まれる(…)。トランスジェンダーの人びとは、その人がどのようなアイデンティティを持ち、どのような外見かに関係なく、すべての人が望み、受けている性別認定を享受すべきだ。トランスジェンダーの人びとの性別認定に対する医療やその他の面での障壁は、心理的・精神的健康を害しうる。WPATHは、書類に記載される法律上の性別又は性別表記の変更を望む人びとの障壁となる、いかなる医療的要件にも反対する[105]。
謝辞
本報告書の作成では、アジア局上級プログラムオフィサーの吉岡利代、日本代表の土井香苗、東京オフィス・インターンの加藤瑞希、喜多山涼、佐々木初奈子、武田理子、中島聖生、山口比奈子、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー(LGBT)の権利プログラム上級調査員のカイル・ナイト、LGBTの権利プログラムコーディネーターのアンジェリカ・ジャレットの協力を仰いだ。
LGBTの権利プログラム局長のグレイム・リードと土井香苗が本報告書の編集にあたった。法律・政策局長のジェームズ・ロスと、上級プログラムエディターのダニエル・ハースが、法律面とプログラム面からのレビューを行った。制作補佐はアンジェリカ・ジャレット、デジタルコーディネーターのトラビス・カー、アドミニストレーション・マネージャーのフィッツロイ・ヘプキンズが担当した。日本語版については翻訳を箱田徹氏に、専門家による訳文監修を青山学院大学の谷口洋幸氏に行っていただいた。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは、今回の調査に参加し、ご自身の経験を語ってくださった方々に感謝いたします。