ビルマ国内でのロヒンギャの状況
ロヒンギャはビルマの民族だが、長年にわたって、国内での抑圧を避けるために、バングラデシュやタイ、マレーシア、インドネシアに向けて出国し続けている。ロヒンギャの総人口は約 200万人。うちビルマ国内、主にアラカン(ヤカイン)州西部とラングーン(ヤンゴン)に留まっているのは約80万人だ。約20万人がバングラデシュで暮らし、そのうちの3万人が劣悪な状況にある難民キャンプで生活している。推計50万人が中東で、また5万人がマレーシアで移住労働者として生活しており、残りの人々は地域全体に分布している。日本に行ったり、はるばるオーストラリアまで船で渡ろうとしたりする人々もいる。ビルマ政府からビルマ国民として認められていないことが主な理由となり、ロヒンギャのほとんどは無国籍者となっている[10]。
ビルマの劣悪な人権状況の中でも、ロヒンギャへの過酷な扱いは際立っている。ロヒンギャたちは、軍事政権の残虐な国家建設政策の矢面に、数十年にわたって立たされている。ロヒンギャのルーツは、アラカン人仏教徒、チッタンゴン地域のベンガル人、アラブ系交易商人が混ざり合ったものだ。ロヒンギャはベンガル語の方言を話すものの、バングラデシュ国境地帯で使われているベンガル語とは異なる。また都市部に住むロヒンギャの多くはビルマ語も話す。ロヒンギャはアラカン人仏教徒と何世紀にもわたって共存してきたが、その関係はイギリス植民地主義がインドとビルマの間に国境線をひき、分割したことで引き裂かれた。その結果、ロヒンギャは国境線によって分断され、その大半が 1948年に独立した新生ビルマに住むことになった[11]。
ムスリム少数者であるロヒンギャに対するビルマ政府の対応は、排斥、無視、スケープゴートという言葉でおおむね特徴づけることができる [12] 。 1960年代に、ネウィン将軍の軍事独裁型社会主義政権は「ビルマ式社会主義」に則った国民化政策の一環として、数十万の南アジア系住民をビルマから追放。歴代軍事政権はロヒンギャに対して、特に過酷な迫害を行っており、その度合いは国内のどの民族的 ・ 宗教的少数者に対するものよりも厳しいも のだと思われる [13] 。
1978年、ビルマ軍は「ナガミン(竜王)作戦」と呼ばれる殺人的な「民族浄化」作戦を実施し、20万人以上のロヒンギャをバングラデシュ側に追放した。バングラデシュ当局の食糧支援停止がもたらした飢餓と疾病により、うち1万人が死亡するという悲惨な状況の下で、1年間生き延びた人々の大半が、その後ビルマに帰還した[14]。
1983年、ビルマ政府は国勢調査を完了したが、ロヒンギャは対象とされていない。こうした排除によってロヒンギャは無国籍者となっている。1982年国籍法はこの措置を合法化するもので、そこでは国民を二つのカテゴリーにわけた。一つは完全な「国民」で、大半の民族集団がこれに該当する。もう一つは「準国民」で、南アジア系や中国系少数者がこれに該当する。政府はロヒンギャをこの二つのいずれにも該当しないとした。ロヒンギャは、1948年以前からビルマに対して「準国民」としての結びつきが存在していたとは証明できないというのがその理由だった[15]。
1991年、ビルマ国軍がロヒンギャを再び排斥。これによって25万人以上のロヒンギャが、アラカン州からバングラデシュのテクナフとコックスバザールに逃れた。ビルマ国軍は数百人を殺害し、部隊は村落を破壊 ・ 焼討ちして進軍し、人々を強制的に排除した。 1995年、バングラデシュ政府は、国連が支援する帰還手続を通して、避難民の大半を国境のビルマ側へと強制的に送還した。その過程では、バングラデシュ治安部隊と、ロヒンギャを受入れる側のビルマ国軍部隊による殺人などの過度の実力行使が目立った[16]。1995年、帰還者の一部には仮国民登録証(TRC)が与えられたが、これはアラカン州西部内での移動と雇用に関する限定的な権利しか認めないものだった。
この体験を生き延びたロヒンギャたちやアラカン州に残って暮らすロヒンギャたちの大部分は、 UNHCRや国連食糧計画(WFP)などの国際人道機関に支えられてやっと生存が可能になっている状態だ。アラカン州西部の生活状況をはっきりと示すデータが、WFPがビルマで最近行った食糧安全保障に関する調査資料に存在する。これによれば、未成年の男女の半数以上が深刻な栄養失調で、ほとんどの家庭は援助以外に食糧を得る経路を持っていない[17]。WFPのビルマ責任者クリス ・ ケイは「経済的な困難と慢性的な貧困のため、ラカイン(アラカン)州北部に住む多くの人々の食糧安全保障が確保できていな い状況だ」と述べている [18] 。
ビルマ軍による 人権侵害 が、慢性的な貧困をさらに悪化させている。宗教迫害が各地で行われている。破壊されたり、退去を命じられたりするモスクも多い。超法規的処刑も珍しくない [19] 。強制労働と財産の没収が日常的に行われている。ビルマ政府は、むきだしの暴力を用いて直接ロヒンギャを強引に追放するか、あるいは、ロヒンギャの排除を最終的な目標とした差別的な態度や対応を促すという政策をとっている。ロヒンギャは村落間を移動するときでも、そこに駐留する国軍部隊から許可を取得しなければならず、しかもその多くが不許可となる。こうした措置によって、雇用の機会、教育、商業活動が制限されている。
ロヒンギャ居住区の一部は、ビルマ軍政が建設した「モデル村」(通称「ナタラ」。事業を担当する辺境地域 ・ 諸民族開発省の略称)の周辺部に強制的に設置されている。これによって、ビルマ国軍はロヒンギャを監視し、軍とつながりのある営利事業のために土地を没収することができる。現在までに 100程度の村落がアラカン州北西部に建設されている。その大半には、ロヒンギャから没収した土地と財産を割り当てられたビルマ民族とアラカン民族が入植している。移動を余儀なくされたロヒンギャ住民は、このナタラ ・ プロジェクトの入植者の監視対象となることを義務付けられ、こうした村落の近くに住まなければならない場合が多い。また入植者によるロヒンギャへの人権侵害行為 が 各地から報告 されてい る [20] 。
ビルマ軍政はロヒンギャの行動に様々な規制を加えており、特に成人女性と少女への影響が大きい。移動制限は教育や雇用を望む若い女性にとってとりわけ厄介なものになっている。生計を立てたり、教育を受けたりするために、外のビルマ社会と交わる機会や、国際援助機関と接触する機会が、この制限によって制約されているからだ。この 10年余りの間、ビルマ当局はロヒンギャ女性の結婚に条件をつけており、たとえば現地の「ナサカ」(陸軍、警察、入国管理局や税関など複数の機関が構成する国境警備隊)から結婚の許可を取ることを義務付けている。このため強要や賄賂が行われ、手続きに大幅な遅れがみられるケースも多い。未婚で妊娠したロヒンギャ女性も当局から嫌がらせを受ける。 2005 年以降、ロヒンギャ夫婦の子どもは 二 人までとするとの規定が結婚許可書に設けられた。ロヒンギャ女性は教師、看護師、行政職など公的機関への就職をたびたび拒否されている [21] 。
[10] The 1954 UN Convention Relating to the Status of Stateless Persons defines a stateless person as someone, “who is not considered as a national by any State under the operation of its law.”
[11]Martin Smith, “The Muslim ‘Rohingya’ of Burma,” speech delivered at Burma Centrum Netherlands, December 11, 1995, copy on file with Human Rights Watch. See also the discussion “Rohingya” on New Mandala, February 14, 2009. http://rspas.anu.edu.au/rmap/newmandala/2009/02/14/rohingya/
(accessed May 7, 2009)
[12] Human Rights Watch, Burma -Crackdown on Burmese Muslims, July 2002, http://www.hrw.org/legacy/backgrounder/asia/burma-bck.htm; Harry Priestly, “The Outsiders, The Irrawaddy, vol.14, no.1, January 2006, pp. 16-19.
[13] Moshe Yegar, Between Integration and Secession. The Muslim Communities of the Southern Phillipines, Southern Thailand, and Western Burma/Myanmar (Lexington Books, 2002), pp.19-72.
[14]Carl Grundy-Warr and Elaine Wong, “Sanctuary Under a Plastic Sheet: The Unresolved Problem of Rohingya Refugees,” IBRU Boundary and Security Bulletin, vol.5, no.3, Autumn 1997, pp.79-91.
[15]J.A. Berlie, The Burmanization of Myanmar’s Muslims (Bangkok: White Lotus Press, 2008.)
[16]Human Rights Watch/Asia, The Rohingya Muslims: Ending a Cycle of Exodus?, vol.8, no.8, September 1996. U.S. Committee for Refugees, “The Return of the Rohingya Refugees to Burma: Voluntary Repatriation or Refoulement?” Washington, DC, 1995.
[17] Food and Agriculture Organization (FAO) and World Food Programme (WFP), “Crop and Food Security Assessment Mission to Myanmar,” Rome, FAO and WFP, January 22, 2009.
[18]Jonathan Head, “What drives the Rohingya to sea?” BBC News, February 5, 2009 http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7872635.stm (accessed May 7, 2009).
[19]United Nations, “UN Human Rights Experts Call on Myanmar to Address Discrimination Against Members of Muslim Minority in North Rakhine State,” UN Press Release, April 2, 2007.
[20] Fayas Kapani, “Why SPDC sets up Natala villages in northern Arakan,” Kaladan News, April 24, 2009.
[21]Arakan Project, “Issues to be Raised Concerning the Situation of Stateless Rohingya Women in Myanmar (Burma),” Submission to the Committee on the Elimination of Discrimination Against Women (CEDAW) for the examination of the combined 2nd and 3rd periodic state party reports (CEDAW/C/MMR/3), Geneva, October 2008.





