忘れられたビルマの政治囚たち
ビルマの地図
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ビルマの政治囚に関する主な事実
- 活動家や軍政支配に批判的な人々には決まって長期刑が宣告される。
- ビルマ国内には政治活動家を収容する43カ所の刑務所と、囚人に重労働を強制する50カ所以上の労働収容所がある。
- 2008年後半以降、非公開法廷または刑務所内法廷で、政治家、人権活動家、労働運動家、芸能人、アーティスト、ジャーナリスト、ブロガーや仏教僧、尼僧など300人以上の活動家に長期刑が宣告された。量刑の一部には100年を超えるものもあった。
- 活動家の多くは、自由な表現や平和的な抗議行動、組織の結成を犯罪とする時代遅れのビルマ刑法に基づいて起訴された。
- 2008年後半以降の一連の判決は、2007年8月から9月の平和的な抗議行動に対する暴力的な弾圧と同時に始まった大規模な取締りに続く、弾圧の第二段階と位置づけられる。ビルマ軍政当局は、2007年の抗議行動の期間中と直後にラングーンなど都市部で大規模な家宅捜索を行い、また2007年後半から2008年にかけても同様の家宅捜索を断行して、行動に関わった活動家の多くを逮捕した。
- ビルマで最も有名な喜劇俳優のザーガナ氏ら、20人以上の著名な活動家とジャーナリストが逮捕されている。2008年5月にビルマを襲ったサイクロン「ナルギス」の被災者を助けるための人道支援の実施に対して軍事政権が設けた様々な障害について公に発言したことが逮捕理由となった。
- 現在ビルマには2,100人以上の政治囚がおり、その人数は2007年前半の倍以上となっている。
2008年後半に行われた政治囚への秘密裁判
ビルマは今もなお、世界の中でもっとも抑圧的で閉鎖的な社会の一つである。暴力的で排他的な国軍幹部の集団が、1962年以降、統治機構の名を何度か変えながら同国を支配し続けている。
政治信条を理由に国民が投獄されるのは今に始まったことではない。ビルマで最も有名な軍事支配に反対する活動家の囚人、ノーベル平和賞受賞者のアウンサンスーチー氏は1989年以来、大半の年月をラングーンの自宅に軟禁された状態で過ごしている。
2009 年5月にビルマ軍事政権(自称「国家平和発展評議会」=SPDC)はアウンサンスーチー氏を逮捕し、インセイン刑務所に身柄を移した。アメリカ人男性が氏の自宅まで湖を泳いでたどり着き、不必要な侵入を行ったことが理由とされた。当局側は、スーチー氏を1975年の国家保護法第22条に基づく自宅軟禁命令条件に違反したとして逮捕した。2009年8月11日にインセイン刑務所内の刑事法廷は氏に3年の刑を宣告した。刑期はその後、自宅軟禁1年6カ月に減刑された。
アウンサンスーチー氏が率いる政党・国民民主連盟(NLD)のティンウー副議長についても、2009年2月12日に自宅軟禁命令が1年延長された。氏は2003年にビルマ北部で親軍政の暴力集団にスーチー氏と共に命を狙われてから今に至るまで、スーチー氏と同じく一貫して自宅軟禁状態に置かれてきた。2005年には、シャン諸民族民主連盟(SNLD)のクントゥンウー書記長らに対して96年を上回る刑が宣告された。こうした法外な長期刑が反体制派の活動家に宣告されたのは前代未聞のことだった。
スーチー氏が身柄を拘束されていることが大きな関心と懸念を集めているのはもちろん当然のことだ。だが、勇気ある行動の代償として、劣悪な環境下で長期に渡って収監されて今も獄中にあるあらゆる世代の活動家に対する世界の関心の度合いは、それと比べると極めて低い。たとえば以下のようなひとたちだ。
ザーガナ氏はビルマで最も人気のあるお笑いタレント(喜劇俳優)の1人だ。長年にわたって軍政支配に反対してきたが、ここ数年は政治活動と同時に人道支援活動でも知名度を上げている。ビルマ軍政の利己的な開発政策によって社会の最底辺に押しやられた結果、病気や貧困に苦しんでいる多くの人々に手を差し伸べている。
ガンビラ師は2007年の抗議行動で中心的役割を担った青年僧だ。一連の行動は、生活水準の低下と抑圧的な軍政支配に対し、若年層に広がる不満を象徴したものだった。
スースーヌウェ氏は農村出身の女性で、2005年、村の道路工事への強制動員に反対して軍政に抗議した。この事件以来、氏はビルマで最も大胆で率直な労働運動家の1人となった。
ミンコーナイン氏は、学生が主導した1988年の抗議行動の指導者の一人である。1989年から2004年まで投獄されていたが、期間の大半を独房拘禁状態で過ごした。氏は釈放直後に、多くのベテラン活動家と共に「88世代学生」グループを結成した。この団体は、ビルマ国内にとどまり、政治経済社会各面の改革に向けた対話を始めることを目的に軍政の支配に対して平和的な抗議行動を行うことを方針としている。
この4人の著名な活動家は、軍政支配に対する多様な抵抗のあり方を体現しているが、今この瞬間も獄中にある。
ビルマ軍事政権は、見せかけの政治改革と国軍に忠誠を誓う傀儡民間組織を結成することで、軍政支配を強化しようと長年腐心してきた。そして、ここ数年のビルマ国内での弾圧は、この動きとあいまって一層強まっている。
2007 年9月の弾圧では、ラングーンの街頭で、治安部隊が、仏教僧や抗議活動の参加者たちを殴打し、不当な逮捕や身柄拘束を行ったほか、発砲にも至った。夜になると、制服警官や私服の準軍事組織のメンバーが、僧院のほか、平和的な抗議活動に参加した人々の自宅を強制捜索し、数千人を逮捕。少なくとも31人が亡くなっている。その後何日もの間、多くの人が殴打を受け、不当に逮捕され、即席の拘留施設や警察署、刑務所に収容された。
2008 年5月上旬には、サイクロン「ナルギス」が襲来。ビルマ各地に甚大な被害をもたらした。それにも拘わらず、軍政は、国際社会から見せかけだと広く批判されていた憲法制定のための国民投票を強行。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、国民投票の準備段階で、集会・結社・メディアの自由に対する既存の厳しい規制を、当局はさらに強化していたという調査結果を報告している。
国民投票は「規律ある民主主義」として軍政が描くプロセスを前進させるものだ。これは1990年に行われた複数政党制の国政選挙で、軍政と系列政党が完敗して以来続いているプロセスだ。総選挙での敗北を受け、軍政はいわゆる「民主化プロセス」を慎重に組織化し、政治活動家と人権活動家については、投獄や脅迫を行うほか、亡命に追い込むといったやり方で確実に排除しておこうと画策している。このプロセスのねらいは、ビルマが本当に変わりつつあると国際社会に信じこませるところにある。だが軍政の実際の目的は、厳しく統制された文民政府の装いを取りながら、軍による抑圧的な支配を維持することにある。
2008 年9月、軍事政権は2007年の弾圧から1周年という事実から国際社会の注意をそらすために、囚人9,000人以上を釈放。しかしこの9,000人うち、政治囚はたった8人だった。しかもうち1人は翌日再逮捕され、2カ月間拘束された。またうち1人は、政治囚のなかでも最も高齢で、投獄期間も最も長いウィンティン氏(78)だった。氏はジャーナリストとしても政治活動家としても活躍し、ラングーンの悪名高いインセイン刑務所に1989年から収監されていた。
2009 年2月、軍事政権は囚人6,000人以上を釈放した。国連のミャンマーの人権状況に関する特別報告者トマス・オヘア・キンタナ氏のビルマ訪問に対する協力姿勢を示すことが目的だった。だが、釈放された囚人のうち政治活動家はわずか31人だったと推計される。また内訳を見ると、2007年の抗議行動以前からすでに収監されていた人が多くを占めていた。
2008年10月上旬、軍事政権は、ビルマの反体制派の活動家や市民社会の活動家たちに対する広範な攻撃を開始。軍政は刑務所内法廷や全国各地の非公開法廷で、数百人の活動家や仏教僧、人権活動家を裁判にかけた。法の支配は軍政の恣意的な操作で著しく歪められた。
ビルマ国内の裁判は、軍事支配に反対する人々にとっては明らかに不公平だ。なにより司法の独立が存在しない。ビルマの裁判官は軍事政権の思いつきに奉仕し、国軍の命令には絶対服従する。政治活動家の被告を弁護しようにも、弁護士には、弁護を行う時間や機会がほとんど(またはまったく)与えられない。政府側が提出した証拠を調査して反論することも許されない場合が多く、政治的理由で拘束された人物の裁判では証拠がねつ造されることもある。被告側弁護士は依頼人との接見交通を厳しく制限されるだけでなく、公正と正義という最低限の基準を満たした裁判の実施を求めたことで投獄されていた弁護士たちもいる。
被告の家族は裁判の傍聴を許可されない場合が多い。身内が裁判を受けている場所を実際に探しだし、そこまで行くことができたとしても、当局は一般人の法定への入場を禁じている。
軍事政権は、自由な表現や平和的な抗議行動、団体の結成を犯罪とする、曖昧な文言の時代にそぐわない法律を用いている。植民地期に定められた刑法典は、その他の多くの法律と同様、制定時の1861年から抜本的な見直しが行われていない。
裁判が始まる前に、弁護士は依頼人に面会します。そして、依頼人から弁護方針についての要望を聞くわけです。こうした面会は通常、警察署内の拘置所で行われます。政治囚が出廷する際に警察署に移送されますからね。こうした面会の時には、必ず、警察官と公安警察が横で監視しています。ですから、依頼人と弁護士が裁判の打ち合わせをするにも、プラバシーは全くありません。いったん裁判が始まると、裁判官、検察官、検察側証人はみな、軍事政権の指示に従うのです。
―ソーチョーチョーミン氏。弁護士として訴追された政治活動家の弁護人を務めていたが、法廷侮辱罪で起訴され、2008年12月にビルマを出国した。
多くの活動家が刑法第505条b項違反で訴追されている。同項は「公衆全体、または公衆の一部に恐怖や警戒心を引き起こす可能性があり、そのことを通じて国家または公共の静穏に対する犯罪を他人に教唆するおそれのある文書、風説または報告」を作成、掲載または流通させることを禁じている。頻繁に用いられる告訴理由としては、このほか、宗教を侮辱する意図で行う信仰の場の毀損または冒涜、外国に対する名誉毀損、公共の害となる文書の作成、不法な結社の結成、許可のない外貨の所持などがある。
政府は、多数の活動家、ジャーナリスト、仏教僧や学生を「テロリスト」だと糾弾し、僧院に爆弾や武器を保持していたと主張して訴追している。
獄中の政治囚と公判中の政治囚の一覧は以下を参照。http://www.aappb.org/prisoners1.html.
刑務所の過酷な収容環境
2006 年前半から、赤十字国際委員会(ICRC)は、ビルマの刑務所に対する独立した非開示の訪問を停止した。軍事政権側は囚人の面会時に政府職員が同席することを強く求めたが、これがICRCの活動手順にはっきり違反するからだ。それから現在に至るまで、国連当局者が著名な政治活動家をわずか2回訪問しただけだ。パウロ・ピニェイロ氏は、国連のミャンマーの人権状況に関する特別報告者だった2007年11月にインセイン刑務所を訪れ、スースーヌウェ氏など著名な囚人数人と短時間面会した。ピニェイロ氏の後任のトマス・オヘア・キンタナ氏は2008年8月にインセイン刑務所を短時間訪れ、ウィンティン氏[1]、ガンビラ師、その他2人の囚人と面会した。キンタナ氏が2009年2月に2回目の訪問を行った際には、知名度が低く、政府があらかじめ選んだ政治囚5人にしか面会することができなかった。
ビルマの刑務所の環境は劣悪だ。政治囚は日常的に虐待と拷問を受けている。懲罰として、きつい姿勢の維持、殴打、狭く光の入らない房(別名「犬小屋」。訳注:警察犬用の部屋であるためにこの名前がついた)への独房拘禁などが行われている。食糧と治療はきわめて不十分なことが多く、まったく提供されないことさえある。また多くの場合、経費は囚人の自己負担となっている。
2008年後半に判決を受けた政治囚には、山あいの荒涼としたへき地の刑務所に移送された人びともいる。活動家をこうした刑務所に移送する目的は、家族の訪問や弁護士の代理人業務を難しくすることのほかに、囚人のおかれた状況に関する情報を国際社会に届きにくくするためでもある。
ビルマの刑務所から外の世界に詳細な情報を持ち出すことは、たいへん難しく危険な行為だ。2008年12月下旬、裁判所はゾーナイントゥエ氏に対し、その数週間前にインセイン刑務所に収監中の兄弟の手紙を受け取ったとして9年の刑を宣告した。その兄弟とは、有名な団体「88世代学生」の幹部で、現在獄中にあるチョーチョートゥエ氏で、手紙は刑務所から持ち出されたものだ。看守3人も逮捕、起訴された。
政治活動家にとって、獄中にいる期間とは心身両面での処罰、また愛する人々からの別離だけを意味するものではない。軍政は、長い刑期を宣告することで、活動家自身やその友人たち、そして、民主主義と人権のために彼らが行っている運動そのものの影響力を壊滅させ、ビルマ社会に意味のないものとし、刑務所の外の世界の記憶から彼らを消し去ることを目指しているのだ。
ザーガナ氏
ザーガナ氏(本名マウントゥラ)は、ビルマで最も有名な社会派のお笑いタレント(風刺劇俳優)であるとともに、活動家でもある。元は歯科医(この経歴に掛けて、芸名を「ペンチ」や「ピンセット」の意味の「ザーガナ」としている)だったが、1980年代後半には一座で行った「物乞い」ショーで人気を博した。これはビルマ軍政幹部の腐敗や、生活水準の悪化、ビルマ国内での基本的自由の欠落をネタにしたもので、ザーガナ氏は舞台やテレビに出演して有名タレントになった。
多くの場合、こうしたショーでは、ビルマ語の声調を利用した掛け言葉が使われた。ザーガナ氏はこうした手の込んだジョークを、ビルマ語で「ハータ」(元は「机の下」や「幕の内側」の意味)的なユーモアと呼んでいる。これは、ある部分はジョン・スチュワート(米国のコメディアン)のコメントや、またある部分はベニー・ヒル(英国のコメディアン)のユーモアをビルマ風に独自にミックスし、そこに挑戦的な反政府感情を加えて過激にしたものだ。
大評判となったジョークの一つに、1980年代後半の軍政幹部の有能さを取り上げたものがある。こういうものだ。「どの国にも話のタネになるようなサクセス・ストーリーがあるものだ。手がないのに書くことができる人を自慢したがる国もあれば、足がないのに走ることができる人の話を出してくる国もある。だがビルマのような国は他を置いてない。わが国では、脳(能)がないのに40年も国を統治できている将軍様たちがいらっしゃるのだ!」 他には、「シッコー」と呼ばれる、合掌して静かにお辞儀する丁寧な挨拶をしながら、ビルマ軍政幹部の名前を挙げていき、そこで「コー」の声調を変えて「盗み」という意味に変えるというコントもあった。
1988年の民主化蜂起の際に、ビルマ政府は、芸能人たちに反体制抗議行動を支持させたとしてザーガナ氏を逮捕。氏は刑務所で拷問を受けた。1989年に釈放され、1990年総選挙への立候補準備をしていた母親の事前運動を行っていた際、ザーガナ氏は政府を再び批判した。これが原因でさらに4年を獄中で過ごした。投獄中の1991年には、迫害を受ける作家に贈られるヒューマン・ライツ・ウォッチ/ヘルマン‐ハメット賞(助成金)を受賞した。
投獄中のザーガナ氏は刑務所当局から書くことを禁止されていたが、ひそかにジョークや詩を書きためていた。その一つが『私の住むこの刑務所:世界ペンクラブ獄中作家作品集』(1996年)に収録されている。
僕は壁の外へ向けて自分の考えていることを送る
明けても暮れても、夜明けから夜まで
僕は終りのない夢を見る
終りのない旅行を夢に見る
一晩中、いらだちながら
今か今かと待ちわびながら
求める人はやって来ない
待ち人が現れることはない
ああ、いっそ止めてしまえたらいいのに
考えること、見ること、聞くこと、夢見ることを
何も感じなくなってしまえばいいのに
1993年の釈放後もザーガナ氏はコントや映画に引き続き出演し、HIV/エイズと生きる人々への支援を強く訴えた。だが軍政支配への直接的な批判ゆえに、公の場に出る機会を何度も奪われている。
彼はここ10年で数本の映画を製作した。このうち2006年の作品『もう耐えられない』は上映禁止となった。理由はおそらく、毎年恒例の水かけ祭りに対する政府の規制が強化されたことをおおっぴらに批判したためだろう。ビルマ当局は彼の一連の発言を「公安の不安と暴力を助長する」として非難した。
最高指導者タンシュエ議長の娘は2006年にきわめて豪華な結婚式を行った。このビデオが一般に流出すると、国民の間には不満が広がった。そこでザーガナ氏は、国民の誰もが不審に思っていたことをネタにした。議長の娘のサンダーシュエ氏の出産が迫っていたために急遽結婚式が計画されたのだが、子どもの本当の父親は、彼女の結婚相手で、父親お気に入りの陸軍士官ではないという噂があった。そこでザーガナ氏は「他の国では即席めんやインスタントコーヒーが有名だ。しかしインスタント・ベイビーはビルマにしかない!」というジョークを飛ばしたのだ。
ザーガナ氏はまた、個人の寄付を集め、ラングーンの貧困層に向けた、保健問題関係の社会支援事業を行うことでも高い知名度を得た。氏と共に行動する機会の多かったのは、有名な非営利団体「無料葬儀挙行会」(FFNS)の主宰者で俳優のチョートゥ氏だ。同会は葬式費用が払えない家庭を対象に、葬式を出す活動を行っている。ザーガナ氏は、口の利き方に注意して逮捕されないようにという家族や友人からの忠告に耳を貸さず、こう言ったという。「どうせ逃げられっこないんだ。俺はでかいはげ頭が目印だろ。警察には簡単に見つかってしまうよ!」
2007 年の抗議行動では、ザーガナ氏などの芸能人たちは仏教僧を公然と支持し、大規模なデモの前に仏教僧に食物と水を供えた。この行動が広く知られるようになったこと、また外国メディアのインタビューにたびたび応じたことで、ザーガナ氏は2007年9月に再び逮捕された。それから1カ月間、軍事政権は氏の身柄を複数の収容所や尋問施設に次々と移した。勾留時の環境は劣悪だった。しかし釈放時のザーガナ氏は、持ち前の皮肉たっぷりのユーモアを活かして、ヒューマン・ライツ・ウォッチに刑務所内での出来事を次のように語った。
犬小屋に8日間独房拘禁されていて、3日間は水浴びができなくて。しかも、お盆の上で用を足さないといけなかったんです。お盆が一杯になったんで、それではしかたない、ちょっと失礼ドアの下から排尿させていただきましょう、としたところ、周りの犬たちにかみつかれそうになってね。たいへんでした。
―ザーガナ氏、「犬小屋」房での生活をヒューマン・ライツ・ウォッチに語る(2007年10月)
2007年10月に釈放されてからも、ザーガナ氏は活発な政治活動を続けていた。2008年5月のサイクロン襲来後には、400人以上のボランティアのネットワークを組織し、生活必需品を毎日被災地まで運んだほか、緊急に必要な食物や水、また住居建設のための費用も集めた。
ザーガナ氏はその英雄的な支援活動にもかかわらず、軍政の不十分な対応をはっきり批判したために再び投獄されてしまった。逮捕される数日前の2008年6月4日、氏は複数の外国メディアのインタビューに応じ、被災地の状況はいまだ深刻であること、また政府の対応が不十分であることを国際社会が認識すべきだと述べた。彼は在外メディアのイラワディ誌に次のように語っている。
私は自国の民の力になりたい。だから私たちはかき集めたわずかな寄付を携えて出向くのです。だが政府は私たちのやっていることが気に入らない。国民を救援することに関心がない。国際社会と被災を免れた地域の人々に対し、すべては順調で、政府は国民を救護し終わったので大丈夫と言いたいだけなのです。
―ザーガナ氏、2008年6月(この2日後にラングーンで逮捕)
ザーガナ氏の裁判は、インセイン刑務所の非公開法廷で2008年8月に始まった。起訴容疑は「発言または書面による[中略]宗教の侮辱」(刑法第295条a項)や、公共の害となる文書の作成(同法第505条b項)、テレビ・ビデオ法第32条b項と同法第36条、電子取引法第22条a項と同法第38条、不法結社法第17条2項への違反などだ。これらの条項によって、外国メディアの記者のインタビューに応じることや、政府による人権侵害行為に関するビデオや写真を保持することなど、表現や結社の保護されるべき行為が違法とされている。
警察の捜索でザーガナ氏の家から押収され、検察側が物証としたものは、ビルマを舞台にした映画『ランボー4』のDVDや、サイクロン被災地や2007年のデモの様子を収めた映像や写真などだ。
2008年11月21日、刑務所内の法廷はザーガナ氏に59年の刑を宣告した。2009年2月に刑期は24年減刑され、35年となった。
判決後、ザーガナ氏はビルマ北部カチン州のミッチーナー刑務所に移送された。この地域は冬の寒さがとりわけ厳しいことで知られている。氏の家族は12月に遠路はるばる面会に訪れており、氏は元気に「当地の寒さを楽しんでいる」と語った。ザーガナ氏の母で著名な作家で政治活動家のチーウ氏は、2009年3月20日に亡くなった。
私は、自分の息子と同じ宿命に立ち向かう子を持つ母たちと同じ気持ちです。私は動揺していません。息子の行動は国のためを思ってこそのことなのです。容疑がいくつ積み重ねられたところで私は何とも思いません。
―チーウ氏(作家、ザーガナ氏の母)、2008年8月18日
ガンビラ師
仏僧のなかでも最も象徴的な人物は、おそらく28歳のガンビラ師(俗名サンドーバータ氏)だ。ガンビラ師は全ビルマ僧侶連盟の幹部で、同連盟は2007年9月に覆鉢を行った。これは国軍の人間が仏教から破門されたことを告げる行動だった。師はデモを率い、先頭に立ってもっともはっきりと声を挙げた青年僧の一人で、抗議行動を中心となって組織しながら、ラングーンとマンダレーを往復して当局の目をくらましていた。弾圧が始まったのを受けて彼は地下に潜伏した。
潜伏から1カ月あまりが経過した2007年11月4日、ガンビラ師はマンダレーで逮捕された。当局はこの数週間前に、ガンビラ師に活動を放棄させることを狙い、連帯責任を取らせる形で兄のアウンチョーチョー氏を逮捕した。師の逮捕と同じ日に、当局は同じ目的で父親も逮捕し、マンダレー刑務所に1カ月間投獄した。
軍政は一斉検挙や殺害、拷問、投獄といった手法をとってくる。だがそんなものでは、奪われた自由を取り戻したいという私たちの強い願いを一掃することはできない。私たちは相手から最高のパンチをお見舞いされた。だから今度は軍政幹部の方が自らの行いの結果を恐れなければならない。私たちは非暴力を貫く。私たちの決意は鋼のように硬い。後戻りはありえない。この長い歩みの中で、私の、または同志たちの命が犠牲になることがあっても何ということはない。他の誰かが私たちの衣鉢を継ぎ、より多くの人々が隊列に加わり、そこに連なるだけだ。
―ガンビラ師、ワシントン・ポスト紙への寄稿より、2007年11月4日(この日に逮捕された)
ガンビラ師は僧侶連盟を指導したとして10の罪状で起訴された。組織結成法第6条、刑法第145条(非合法集会罪)、同法第147条(暴動罪)、同法第295条a項(宗教侮辱罪)のほか、国軍士官の反乱または職務放棄を引き起こすことを意図した文書を作成したとして同法第505条a項違反などに問われた。
2008 年11月、ガンビラ師に68年の刑(うち12年は重労働刑)の判決が下った。弟のアウンコーコールウィン氏はガンビラ師の身柄を隠匿したとして20年の刑を宣告され、アラカン州のチャウッピュー刑務所に送られた。義理の兄弟のモーテッヒャイン氏も逃亡を援助したとして投獄され、現在モン州のモールメイン刑務所に収監されている。
ガンビラ師がビルマ西部のザガイン管区のフカムチ刑務所に収監されていたときに、母のイェイ氏は師と面会するために、3日間のきつい船旅をこなした。イェイ氏はラジオ・フリー・エイジア(RFA)に次のように述べた。「マンダレーから[フカムチ]刑務所への旅は、生きたまま地獄に送られるようでした。私の人生、そして私の家族の人生は、ただ淡々と過ぎていくのです。私たちはまるでロボットのように食事をとり、眠るだけです。生きた心地がしません。私たちがいま耐えている試練を考えると――家族全体が処罰されているのですから。」
2009年5月、ガンビラ師はザガイン管区の中でも相当僻地のカレー刑務所に移送された。師の健康状態は悪化が伝えられる。当局は家族に面会許可を出していない。2009年6月には68年の刑期が5年減刑された。
スースーヌウェ氏
ビルマでの強制労働廃止を目指す最もタフな活動家の1人はスースーヌウェ氏(35)だ。2005年に、ラングーン市近郊のタンリン郡の村に住んでいた彼女は、自分たち住民を道路工事に強制動員した地元当局者を訴え、歴史的な勝訴判決を勝ち取った。これにより地元当局の責任者は8カ月服役した。だがスースーヌウェ氏自身も1年6ヶ月の刑を宣告されてインセイン刑務所に送られた。「村議長への中傷」が有罪とされたためだ。
国際社会、とりわけ国際労働機関(ILO)からの強い働きかけにより、政府は2006年6月にスースーヌウェ氏を釈放した。釈放後も氏は政府とのたたかいを続け、たびたび逮捕されている。2007年にILOと軍事政権は、スースーヌウェ氏のように、強制労働に苦情を申し立てただけの人物に対する処罰を停止するメカニズムの設立で合意した。強制労働はビルマの人権状況の深刻さを明確に示す指標の一つである。
2007 年8月28日に、スースーヌウェ氏はラングーン中心部で、小規模だが派手なデモを行い、「燃料価格を下げろ! 物価を下げろ!」と叫んだ。軍政の翼賛団体「連邦連帯開発協会」(USDA)とスワンアーシンの暴力的なメンバーが、公安警察の指示に従って、スースーヌウェ氏本人はもちろん、彼女を守るためにスクラムを組んでいた支持者たちにも暴行を加えた。この暴行の結果氏は意識を失ったものの、逮捕は免れた。氏は潜伏先で報道機関とのインタビューにいくつも応じている。あるインタビューでは、軍事政権へのたたかいを続ける理由について次のようにはっきりと述べている。
潜伏は退却を意味するのではありません。とはいえ、私たちが残らず投獄されてしまったら、国民のために立ち上がり、政府を批判する人がまったくいなくなってしまうのではないかという不安はあります。彼ら(=軍政の)の包囲網の中にいることはわかっています。近いうちに拘束されることもわかっています。しかし逮捕される前、潜伏に成功している間に言うべきことは言っておかなければならないのです。
私たちは自分たちのことだけを考えてデモをしているのではありません。すべての国民のためにーー私たちを殴り逮捕しようとする人々や警察も含めて、ということですがーー活動しているのです。私たちを虐待する人たちの生活だって苦しいのです。かれらは軍政下で生活しているために軍政に利用されているだけなのです。
―スースーヌウェ氏、潜伏先でのインタビュー(2007年10月)
潜伏を続けていたスースーヌウェ氏だったが、2007年11月に、当時ビルマを訪問していた、国連のミャンマーの人権状況に関する特別報告者パウロ・ピニェイロ氏が滞在するホテルに、仲間のボーボーウィンフライン氏と共に現れた。スースーヌウェ氏は、軍政の醜悪なプロパガンダをもじった横断幕を掲げた。そこには「中国に頼り、こそ泥のように振る舞い、残虐なものの見方をする連中に反対せよ」と書かれていた。当局はすぐに氏を逮捕した。
2008 年11月、インセイン刑務所内の特別法廷で、スースーヌウェ氏に12年6カ月の刑が宣告された。容疑は扇動罪(刑法第124条a項)、公衆に恐怖または警戒心を引き起こす、または国家または公共の静穏に対する犯罪を他人に教唆する文書の作成(同法第505条b項)などだ。刑期は後に8年6カ月に減刑された。
スースーヌウェ氏には、重い心臓疾患や高血圧など重大な健康上の懸念がある。ビルマ政治囚支援協会(AAPPB)によると、刑務所当局から十分な治療を受けておらず、歩行が困難な状態である。2008年11月に、当局は氏の身柄をいったんマンダレー管区のオーボー刑務所に移し、それからすぐにザガイン管区のカレー刑務所に移送した。
ミンコーナイン氏
ミンコーナイン氏(「王を打ち倒す者」の意味)は、政治信条を理由に、この20年間のうち17年間を獄中で過ごしてきた46歳の活動家だ。しかもその大半を独房拘禁状態に置かれている。2004年後半に釈放されるとすぐに、国内に留まって基本的自由を求めるたたかいを続けると宣言した。「88世代学生」グループが軍政支配に対する平和的な抵抗運動を活発に展開していたとき、ミンコーナイン氏は平和的な変革に向けた自らの手法を、在外メディアとのインタビューで次のように詳しく語っている。
私たちはいつでも和解に応じる用意があります。私たちは自国の不正に対するたたかいを続けてきた被抑圧者であるからこそ、私たちには常に対話の用意があるのです。というのは、ある問題を解決するには国民和解を原則とする必要があることを、私たちはたびたび気付かされるからです。問題は政府の側にその気があるかです。私たちは呼びかけを続けることで、国家を建設するためには、お互いを抹殺しあうのではなく、お互いに力を合わせる必要があるのだというメッセージを政府の側に伝えていきたいと考えています。
―ミンコーナイン氏、抗議行動を行なう前のインタビュー(2007年4月)
2008 年半ば、当局はミンコーナイン氏ほか、「88世代学生」の指導部(コーコージー氏、テーチュエ氏、ピョンチョー氏、ミンゼーヤ氏など)を抗議行動に関与したとして22の罪状で起訴した。
私たちは、燃料価格の上昇に抗議するだけでなく、ビルマ国民が大変な苦しみを抱えているという事実に注目してもらいたかったので、平和的なデモを行った。私たちの目指すものは、これまでも、そしてこれからも、民主的な社会への平和的な移行と国民和解である。
―テーチュエ氏、潜伏先から国連安全保障理事会に宛てた書簡(2007年9月)
ミンコーナイン氏とコーコージー氏はビルマ北東部シャン州のケントン刑務所に収監されている。家族によると、ミンコーナイン氏は視力が低下しているだけでなく、重い心臓病もわずらっているが、当局は一切治療を行っていない。2008年12月下旬、ラングーンから遠く離れた北東部の寒さの中で、家族が面会にこぎ着けたとき、氏は独房拘禁とは「冷蔵庫の中で生活しているようなものだ」と語った。
2007年9月の弾圧
2007 年8月、軍事政権はいきなり国内の公定燃料価格を切り上げ、貧困に苦しむ多くの人々に一層の負担を強いた。燃料価格の上昇を受けて、積極的な姿勢を強めつつあったビルマ国内の市民社会からは、大胆で大衆的な抗議行動が生まれた。これに先立つ2007年前半には、複数の活動家グループが、電力供給の無計画性、食料品価格の上昇、教育水準の低さや医療サービスの欠如など、軍政に対する様々な日常的な不満を掲げてデモを行っていた。
「88世代学生」は1988年の民主化蜂起で活躍した元学生からなる政治組織で、メンバーの多くに獄中経験がある。このグループが抗議行動の先頭に立った。ラングーンの街頭で平和的なデモを展開した「88世代学生」と支持者は、軍事政権に対して、政治経済改革に関する平和的な対話の開始を訴えた。軍事政権はこれにいち早く対応し、2007年8月下旬までにメンバーの大半の身柄を拘束した。
9月上旬、マグエー管区北部の街パコックでも、ラングーで反体制派の活動家たちが行なった要求と似たような要求を掲げた僧侶によるデモが行われたが、この際に地元当局が僧侶を暴行する事件が起きた。これが引き金となり、僧侶を中心とした全国的な抗議運動が発生した。9月下旬にかけて僧侶はラングーンの街頭で平和的なデモを行い、何万もの僧侶と尼僧が参加した。
この過程で、ほとんど誰の頭にも浮かばなかったことが起きた。ラングーン市内の大学通りを行進していた数百人の僧侶が、ビルマで最も有名な政治囚であるアウンサンスーチー氏の自宅に向かったのだ。一行はスーチー氏に対して読経をし、氏は玄関先でそれに手を合わせた。僧侶の一行はその後静かに立ち去った。
デモの隊列が着実に増えていくことから希望の光が差したようにも思えたが、それも長くは続かなかった。9月26日には、暴動鎮圧部隊が、国軍正規部隊と政府系の民兵組織スワンアーシンの支援を受けながら、ラングーン市街でデモ隊を一掃した。2日に渡って暴力が行使された。治安部隊はデモ隊に向けて発砲したほか、抗議行動に参加していた僧侶と民間人を素手や棍棒で殴りつけ、数千人を逮捕。僧院や一般家庭が治安部隊によって繰り返し家宅捜索を受けた。国連の推計によれば、治安部隊によって少なくとも31人が殺害されているが、実際にはずっと多くの人が犠牲になったと思われる。国際社会の注目が一斉に向けられる中で、軍事政権は暴力を用いて不気味な静けさを回復させた。
サイクロン
2008年5月初め、サイクロン「ナルギス」が下ビルマを直撃し、15万人以上の死者・行方不明者を出した。非常に激しい嵐と高波によって、沿岸地域にある村や町、旧首都ラングーンが甚大な被害を受けた。被災者は240万人以上に上る。
軍事政権がサイクロン直後にとった措置とは、一刻を争う最初の数週間の間、イラワジ・デルタの被災地域への援助物資の搬入を妨害または遅延させることだった。軍政がサイクロンを自然災害ではなく国家安全保障の問題として扱ったため、無数の人が不必要に命を落とし、あるいは苦しみを抱えることになった。これは軍政が自国民の福祉を甚だしく軽視していることの表れだ。また、軍事政権が憲法制定のための国民投票の実施に固執したこともこうした対応を生んだ原因の一つだろう。軍政はそれまで数カ月に渡り、脅迫や票の不正操作を通した容赦のない準備作業を進めており、大部分の地域ではサイクロンのわずか1週後に投票を実施した。政府の発表によると、投票率は98%で、うち92%以上が新憲法支持に投票した、という主張だ。
被災直後の一刻を争う数週間に、国際社会からの支援と専門家チームがラングーンと隣国タイに多数到着した。しかしその展開は、5月下旬の潘基文・国連事務総長の訪問後にやっと実現したに過ぎなかった。
政府が救援活動を行わず責任を果たそうともしないために、ビルマの市民社会がその役割を代行した。数千人単位の人々が活動し、個人やコミュニティが寄付を募り、援助物資を集めて、デルタ内の被災地域やラングーン周辺に出向き、激しい被害を受けた村落への救援活動を行った。コミュニティ・ボランティアや民間団体、国際機関職員など様々なビルマ人が、当局の設置したバリケードや障害物などにしばしば行く手を阻まれながらも、自国民を救援する活動を行った。
サイクロン後の市民社会の復活は、ビルマ国内に人道活動を行う余地ができたことを示しているのではないかという見方もある。しかし、政府から独立した支援活動に携わったり、政府への不満を公然と口にしたりしたビルマ人にとっては、逮捕や脅迫の恐れはきわめて現実的なものであり、そのことは現在も変わらない。
2008年6月だけで、サイクロン被災者支援に関わる活動を理由に22人が逮捕されたとヒューマン・ライツ・ウォッチは考えている。国際社会と接触したか、軍事政権の行動を公然と批判したことがその理由となっている場合が多い。その中で最も知名度が高いのは喜劇俳優で活動家のザーガナ氏だ。また元政治囚など多くの人々も、自国民を支援するためにわずかに存在する自由を精一杯用いて活動していた。
警察は、エコ・ヴィジョン誌の記者エインカインウー氏(24)とウィークリー・ジャーナル誌の元編集者チョーチョテイン氏という2人のジャーナリストを逮捕した。被災者をラングーンに招き、ICRCと国連開発計画(UNDP)との面会時に彼らの通訳を務めたことが逮捕の理由とされた。サイクロン被災者の発言を国際社会に届けようとしたために、エインカインウー氏は2年の刑に、チョーチョテイン氏は7年の刑に服することになった。
軍政は奇妙な広報活動を行っていた。たとえば世界に対してビルマ国民は「物乞いではない」ので施しはいらないとのメッセージを発信しようとしていた。評判の悪い次のような話もある。国営メディアは、ビルマ国民が生き延びるには「舶来品のチョコレート」など不要で、被災者が食べられる「大型の食用蛙が豊富にいる」と宣伝していたというのだ。タンシュエ議長は被災者の住む仮設避難所を訪問して回り、電気が使えない住民にDVDプレーヤーを配っていたが、その時点でビルマ政府はヘリコプターの飛行権料をめぐって国際社会と交渉しており、援助物資を積んでいる英米仏の艦船はビルマ沖で待ちぼうけを食わされていたのだ。
ネーウィン氏とピョーピョーアウン氏
医者のネーウィン氏は、政治活動を理由に1989年から2005年まで投獄されていたが、2008年6月14日に娘のピョーピョーアウン氏と共に再び逮捕された。サイクロン被災者の遺体を集めて埋葬する活動をとりまとめていたためだ。父娘は「死者埋葬会」という団体を設立していた。軍事政権は、すでに16年間も離ればなれになっていたこの2人を投獄し、2009年2月上旬に違法結社法違反で起訴した。同法は「法と秩序、平和と静謐または安全で確実な通信をどんな形であれ中断するおそれのある行為を試み、扇動し、教唆し、幇助し、または実施する[中略]または、国家機構の秩序に影響し、またはそれを中断するおそれのある行為を試み、扇動し、教唆し、幇助し、または実施する組織」を禁じている。ピョーピョーアウン氏は、公共の害となる文書を作成したとして刑法第505条b項違反でも起訴された。
88世代学生グループ
アウンサンスーチー氏はノーベル平和賞受賞者として国際的に知られるが、スーチー氏に次いで有名な反体制活動家のグループは、1988年の民主化蜂起に参加した後、1989年から2004年の期間の大半を獄中で過ごした元学生が結成したものだ。釈放直後の2005年に、彼らは「88世代学生」を結成した。
「88世代学生」は、非暴力抵抗を全面に押し出した革新的で効果的なキャンペーンを行うことを通して、軍政との対話とビルマ市民社会の関与を求めている。アウンサンスーチー氏と全政治囚の釈放を求める祈りのキャンペーン「サンデー・ホワイト・キャンペーン」を実施し、2007年には手紙書きのキャンペーン「オープン・ハート」を始めた。後者は一般市民に対し、日常生活での困難や要望などを記し、タンシュエ議長宛に送るよう勧めるものだ。同グループによれば、このキャンペーンを始めた目的は「当局による権力の濫用や人権侵害、不正行為といった政治、社会、経済に関わる不満を、勇気を持って主張した人々に敬意を表すこと」である。
2007年の平和的な抗議行動の実施に関与した13人のメンバーは、同年8月22日に逮捕された。この13人の大半が起訴なしで数カ月間勾留された。このほかに22人がそれから数カ月以内に逮捕されている。
当局は、投獄した活動家たち(全部で男性26人、女性9人)に対し、軍政の政治改革プロセスを公けに支持すれば釈放すると説得。しかし全員がこの提案を拒否し、獄中に留まった。2008年半ばになると逮捕されたメンバーの大半に対し、非公開の裁判が始まった。
2008年12月までに、公判中だった「88世代学生」メンバー全員に65年の刑が宣告されたが、彼らはこのほかにも複数の容疑でも起訴されている。
起訴理由は、外国に対する名誉棄損、公共の害となる文書の作成や違法結社の結成などだ。
政治活動家の弾圧に多用される法律の条文
- 刑法第130条b項 :「発言または読まれることを意図した書面によって、または標識または画像によって、外国の国家、元首、大使または高官を罵り、憎悪し、軽蔑しようとするものを、ビルマ連邦と当該国との平和的で友好的な関係を妨害しようとする意図をもって公表した者は、3年以内の刑または罰金、またはその両方により罰せられる。」
- 刑法第295条a項:「ある集団に属する人々の宗教的感情を侮辱するという計画的で悪意のある意志を持って、発言または書面によって、または画像によって、当該の人々の宗教または宗教的信条を侮辱する、または侮辱しようとする者は、2年以内の刑または罰金、またはその両方により罰せられる。」
- 刑法第505条b項:「公衆全体、あるいは公衆の一部に恐怖や警戒心を引き起こす可能性があり、そのことを通じて国家あるいは公共の静穏に対する犯罪を他人に教唆するおそれのある文書、風説あるいは記事を作成、発行または流通させる者は、2年以内の刑または罰金、またはその両方により罰せられる。」
- 不法結社法第17条1項:「違法な結社の成員であるか、またはこうした結社の会合に参加するか、またはこうした結社の目的のために何らかの寄付を行うか、受領するか、求めるかし、またはこうした結社の活動を何らかの形でほう助する者は、[2年以上3年以下の]刑により[また罰金刑により]罰せられる。」
- 違法結社法第17条2項 :「違法な結社の経営を担い、またはほう助する、またはこうした結社が行う、または成員が成員として行う会合の宣伝を担うか、ほう助する者は、[3年以上5年以下の]刑により[また罰金刑により]罰せられる。」
- テレビ・ビデオ法第32条b項:「次の行為のうちの1つをなす者は、有罪判決を受けた場合、3年以下の刑または10万チャット(約100米ドル=9,500円)以下の罰金、またはその両方により罰せられる。加えて、この犯罪に直接関連する資産も没収される。(中略)第b項:本法によって免除される場合を除き、許可番号の記されたビデオ検閲済証、または小型のビデオ検閲済証がないビデオテープを複製、配布、貸与または上映すること。」
88世代学生グループの活動家たちはラングーンのインセイン刑務所内の非公開法廷で裁判を受けた後、2008年11月下旬に全員がビルマ各地のへき地の刑務所に移送された。そうした遠隔地の刑務所内で引き続き裁判を受ける場合もあれば、審理再開のためにラングーンに定期的に移送される場合もあった。
たった65年?
―ミンゼーヤ氏、判決を読み上げた裁判官に向かって一言(2008年11月)
88年世代学生グループの幹部ピョンチョー氏は、ビルマ最南端のコータウン刑務所に収容されている。
当局はアウントゥー氏の身柄を、中国国境に近いビルマ最北部のプータオ刑務所に移送した。
ミンゼーヤ氏は、ビルマ東部シャン州のラーショー刑務所に移送された。
テーチュエ氏はビルマ西部アラカン州のブーティーダウン刑務所に収容されており、独房拘禁状態に置かれていることが多い。
ニラーテイン氏
ビルマ全土で190人以上の女性たちが政治活動を理由に投獄されているが、ニラーテイン氏(35)はその中でも非常に名の通った活動家だ。氏は、1996年12月に軍政支配に反対する勇敢な抗議行動を組織した「96年世代」の学生活動家だ。氏は1996年から2003年の8年間を獄中で過ごした。2007年の抗議行動の開始直前に氏は第一子を出産した。
警察が2007年8月下旬に88世代学生グループのメンバーを逮捕した際、ニラーテイン氏は4カ月の娘を親類に預け、地下に潜行した。8月から9月にかけての抗議行動後の潜伏先で応じた複数のインタビューで、氏は友人や仲間の逮捕を最も懸念していると述べた。その多くは何度か投獄された経験がある。かれらが活動家として突出していることを考えれば、拘束されれば虐待されることは間違いないとわかっていたからだ。
「現在、彼ら[=情報部]は執拗な捜索を続けており、テーチュエや[中略]ミーミー氏らがこうして拘束されてしまいました。私は彼らの身の安全を心から懸念しています。必ず行われる拷問のことを考えると本当に心が暗くなります。私たち、政治に関心を持ち、政治に関わっているビルマの女たちは、暴力と拷問にさらされており、命を奪われる可能性に直面しています。」
ニラーテイン氏は情報部の捜索を1年以上にわたって逃れてきたが、2008年9月10日に病気の母と連絡を取ろうとして逮捕された。
娘を義母に預けなければならなかった時のことを思うと本当に身につまされます。人生最悪の日だったと言って間違いはありません……。[でも]私は、こうなってしまったことを少しも後悔はしていません。私の娘とよく似た、未来のない、この国の子どもたちの顔をわたしはよく見かけるからですよ。このことを思いつつ、私はこの長い道のりを引き続き歩いていこうと決意を新たにするのです。
―ニラーテイン氏、潜伏先で在外ビルマ語メディアのインタビューで(2008年3月)
ニラーテインは、他の88年世代学生の活動家と同様に22の容疑で起訴された。裁判所から65年の刑を宣告された後、中部ビルマのマグエー管区タイエッ刑務所に移送された。
ミーミー氏
ミーミー氏(本名ティンティンエイ)(35)は、2007年の抗議行動で最も果敢で激しい姿を見せた活動家の一人だ。1989年に高校生として反政府活動に参加したが、この年に逮捕され、数カ月間の獄中生活も経験している。1996年には学生デモに参加して再び逮捕され、2001年まで投獄されていた。大学で動物学を専攻し、2児の母でもあるミーミー氏は、88世代学生グループでは最も若い世代に属する。夫もNLDの活動家だ。ミーミー氏は2007年8月のデモで中心的な役割を果たした後、同月下旬には地下に潜行したが、2007年10月14日に当局に逮捕された。
ミーミー氏は88年世代学生グループの幹部と共に、インセイン刑務所で裁判を受け、65年の刑を宣告された。
私たちは決して恐れない!
―ミーミー氏、判決を言い渡された際、裁判官にこう叫んだという(2008年11月)
氏の健康状態は、長い獄中生活の結果、2008年から2009年にかけて健康状態が悪化してきている。
仏教僧と尼僧
2008 年に有罪判決を受け、投獄された被拘束者の多くが仏教僧と尼僧(女性出家者)だ。街頭デモの時点だけでなく、2007年9月から10 月にかけてラングーンの僧院や僧院学校に対して行われた暴力的な家宅捜索の際に逮捕されたケースもある。現在も約220人の僧侶と尼僧が投獄されている。
2008年後半に、裁判所は僧侶46人と尼僧4人に有期刑を宣告した。重労働刑が科せられたケースの多くで「信仰の場への毀損または冒涜(刑法第295条)、発言または書面[という手段]による[中略]宗教の侮辱」(同法同条a項)、非合法集会の実施、(僧院に隠されていたと報じられた)爆発物所持などの容疑が用いられた。46人のうち5人がングウェチャーヤン僧院の僧侶だ。同僧院は2007年9月26日夜、デモを先導した僧侶を捜索する治安部隊によって暴力的な家宅捜索を受け、流血の事態となった。この5人には6年6カ月の刑が宣告された。
有罪判決を受けた尼僧のうち、ドー・ポンナミ師(84)、ドー・テーイー師(70)、ピンニャー・テインジー師(64)はラングーンのティッサ・タラプー僧院学校の所属だ。全員に重労働刑4年の刑が宣告されている。国連のミャンマーの人権状況に関する特別報告者が2009年2月にインセイン刑務所を訪問した際、氏はドー・ポンナミ師について「自分の逮捕理由を知らなかった。[また]衰弱しており、立って歩くことが困難だった」と報告した。投獄されてから1年6カ月後の2009年3月に、この84歳の尼僧は釈放された。
アーターワディー僧院学校についても、ウー・イェワダ師(65)ら高僧が裁判にかけられている。治安部隊は2007年9月26日夜に、政治活動をする僧侶を探してこの僧院を暴力的に家宅捜索した。同僧院に所属する仏教僧と尼僧7人が、信仰の場の冒涜と宗教の侮辱(刑法第295条および同条a項)の容疑で起訴された。
2008年に下された判決は以下の通り:
ウー・ケーラータ師(マンダレーの僧侶)…35年の刑
ウー・サンダーワヤ師…8年6カ月の刑
ウー・タッダマ師(ガーナプリ僧院の青年僧)…19年の刑
ウー・サンディマー僧正(ラングーン市パズンタウン区チャー僧院)…不法結社法違反で8年の刑。現在も爆発物取締法違反で公判中。
ウー・アーナンダ師(62)…2008年1月に逮捕され、2008 年10月に4年6カ月の刑を宣告される。2009年1月22日にインセイン刑務所で脳卒中により死亡。同時に収監されていた15人の仏教僧と尼僧は食事の配給量の不足により栄養失調状態だが、刑務所当局は家族からの面会申請を却下している。
ジャーナリスト、ブロガー、芸能人とアーティスト
ジャーナリスト保護委員会(CPJ)によると、ビルマではジャーナリスト14人が、取材活動などを理由に現在も投獄されている。2007年の弾圧と2008年5月のサイクロンに関する報道に関連して、多くのジャーナリストが逮捕され、有罪判決を受けている。
有名ジャーナリストのテッジン氏やセインウィンアウン氏もまだ獄中にいる。2人は2008年2月18日に逮捕され、2007年の弾圧のビデオ映像や、国連のミャンマーの人権状況に関する特別報告者が作成した2007年の弾圧に関する報告書のコピーなど、不法な物品とされるものを所持していたとして起訴された。2人には2008年11月28日に、別々の法廷で共に7年の刑が宣告された。
サイクロン関係の報道を行った、あるいはサイクロンに関わる情報やビデオを外国の報道機関に単に送付しただけのことを理由に投獄されているジャーナリストには、アウンチョーサン氏、チョーチョータン氏、エインキンウー氏などがいる。
ゾーテットウェ氏は、ザーガナ氏によるサイクロン救援物資の配付を支援していたところ、政府の対応の遅さや被害の深刻さに関する情報をまとめたとして逮捕され、19年の刑を宣告された。ゾーテットウェ氏は、政府に批判的な有名ジャーナリストで、人気スポーツ誌ファースト・イレブン誌を発行していた。2003年には、サッカー団体への助成をめぐる官僚の汚職をスクープしたとして死刑を宣告されたが、国際的な抗議によって2004年に釈放された。
ブロガーのネーポーンラッ氏(28)は、自身のウェブサイトがビルマ国内外への情報発信で重要な役割を果たしたことで、2007年の弾圧の際に一躍有名になった。2008年1月、ネーポーンラッ氏はブロガー仲間のティンジュライチョー氏と共に警察に逮捕された。そして、国家の安全に危害を加えるため、またはそのような犯罪の実行をほう助するための電子取引技術の使用(電子取引法第33条a項、同法第38条)、ビデオテープの不法な配付(テレビ・ビデオ法第32条b項、同法第36条)、公共の害となる文書の作成(刑法第505条b項)を理由に起訴された。2008年11月にネーポーンラッ氏は法廷で20年の刑を宣告され、ビルマ最南端のコータウン刑務所に移送された。
有名ミュージシャンやアーティストであっても逮捕や重刑を免れることはできない。2008年11月に、グループ「シュウェタンジン」(「黄金のメロディー」の意味)の人気ラッパー・ウィンモー氏は、2007年のデモをビデオ撮影し、政府の残虐行為を伝えるCDを配付したとして7年の刑を宣告された。刑期は2009年3月5日に10年延長され、計17年となった。2008年11月に、人気ヒップポップ歌手ゼーヤートー氏(「ジェネレーション・ウェーブ」メンバー)は、2008年6月19日にNLD党本部で行われたアウンサンスーチー氏の誕生日行事(スーチー氏本人は不在)に出席したとして、7年6カ月の刑を宣告された。ジェネレーション・ウェーブは2007年の弾圧後にビルマの若手活動家が結成したグループで、ゼーヤートー氏らヒップポップ歌手、アーカーボ氏、アウンゼーピョー氏、ティハウィンティン氏、ヤンナイントゥ氏、ワイルウィンピョー氏などの若手活動家が参加している。
詩人のソーワイ氏とミンハン氏も2008年11月に有罪判決を受けた。ソーワイ氏は、2008年初めに軍政のタンシュエ議長を批判する詩を発表したとして2年の刑を宣告された。またミンハン氏は、軍事政権を非難した発言に関していくつもの罪に問われ、11年の刑を受けた。
国民民主連盟の活動家
軍事政権は長年にわたって、軍政に反対する政党・国民民主連盟(NLD)党員たちを弾圧の標的としてきた。アウンサンスーチー氏が率いる同党は、1960年以来の実施となった1990年総選挙で圧勝。だが当局側は脅迫、強要や脅しによって、これまでに党員数千人を脱退に追い込んでおり、現在も450人以上を投獄している。虚偽の訴訟から国軍の直接命令まで、様々な強権的な手法によって、全国各地でNLD支部が多数閉鎖されている。
この2、3年の間、NLD青年部の動きが非常に目立った。青年部には勇敢で革新的な活動家が集まっており、88世代学生やジェネレーション・ウェーブなど比較的新しい団体とも共闘する機会が多い。
2008年後半には、NLD党員約90人が2007年と2008年の活動に関して有罪判決を受けている。うち11人は青年部メンバーで、アウンサンスーチー氏の自宅軟禁解除を求めて、2007年5月15日にラングーンで行った小さなデモへの関与を理由に起訴された。当局はこの11人を公共の不安を扇動したなどとして起訴した。裁判官は11人と被告側弁護士2人を法廷侮辱罪で起訴した。被告の一部が、検察側の被告人尋問のやり方が不公正だとして、裁判官に文字通り背中を向けたからだ。NLD党員11人全員が7年6カ月の刑を宣告された。
2007年の弾圧で逮捕されたラングーン市チャウッタダ区のNLD党員6人にも長期刑が宣告された。チーチーウィン氏が11年、チョージンウィン氏が16年、チョーチョーリン氏が10年、アウンチョーウー氏が5年、ネーザーミョーウィン氏が5年、チンフライン氏が4年の刑期をそれぞれ宣告された。
ウィンミャーミャー氏は、マンダレーの著名なNLD活動家で、2003年のディペイン襲撃事件(訳注:アウンサンスーチー氏とティンウー氏に対する暗殺未遂事件)の生存者でもある。2008年10月には、2007年9月の抗議行動での活動を理由として12年の刑が宣告された。そして2009年3月には、ビルマ北部の中でもさらに深いプータオ刑務所に移送された。ウィンミャーミャー氏はプータオに移送される前に、兄弟に次のように言い残すことができた。「私は自分がやってきたことにふさわしい場所に送られようとしている。人はある日は生きているが、ある日になれば死んでしまうのです。月まで連れて行かれたとしても、私は何とも思わない。」
2009 年2月、1990年総選挙当選者のNLD党員2人に15年の刑が宣告された。ニーブ氏とティンミントゥッ氏は2008年8月、軍事政権の政治改革を批判する書簡を公表したとして逮捕された。2人への判決は、家族と法定代理人の出席が許可されないインセイン刑務所内の秘密法廷で言い渡された。
人権および人権活動家のネットワーク
人権擁護・促進活動家ネットワーク(HRDP)は、世界人権宣言に関する公開セミナーと研修を実施し、人権問題を調査して記録する活動を通して、ビルマ国内の人びとの権利を促進している。こうした草の根活動は、ここ数年来当局の関心を引いている。2007年4月にはメンバー2人が親軍政組織USDAの暴漢から激しい暴行を受けた。2人はラングーン近郊の農村地帯で世界人権宣言に関する村民向け研修会を行っていたところだった。
HRDP創設者のミンエー氏は、ビルマ国内で起きた1974年の抗議行動(注:ネウィン独裁政権に反対する運動)に関わって以来、反軍事体制活動を積極的に続けている。当局は2008年8月8日、1988年民主化蜂起20周年を記念し、自宅で単身の抗議行動を行っていた氏を逮捕した。氏はHRDPの活動家4人と共に、2008年のラングーン市内のUSDA事務所の爆破計画に関わったとして起訴された。現在も43人のメンバーが投獄されていると見られる。
2007 年の抗議行動とサイクロンへの対応は、年齢を問わず様々な人を結びつけ、政府のやり方を批判する大きな声となった。警察は2007年10月上旬に、法学部の学生のハニーウー氏(25)を、非合法組織の全ビルマ学生会連盟(ビルマ全学連=ABFSU)のメンバーとして逮捕した。氏は9年6カ月の刑を宣告された。
元公務員のオーンタン氏(61)は、1988年以降、投獄されていた時期を除いて、政府の政策に単身で抗議する活動を続けてきた。氏は1988年から1995年までは獄中にいたが、釈放と同時に活動を再開している。1996年に再逮捕され、2003年まで各地の刑務所に収監されていた。釈放後から2007年にかけては政治的抑圧と物価上昇に対し、ストイックな単身での抗議活動を行っており、数回逮捕された。オーンタン氏は国連機関の事務所、政府関係の建物、反軍事体制の政党の事務所などの前で、ほとんどの場合は黙ったまま、当局者に拘束されるまで抗議の意志を示すスタンディングを行った。
2007 年8月23日、オーンタン氏は囚人服を身にまとい、大きなプラカードを掲げてラングーンの米国大使館前に現れた。プラカードには国際社会の支援とビルマの国内改革を求めると共に、2007年1月に国連安全保障理事会のビルマ問題に関する決議案に中国とロシアが拒否権を行使したことを批判する内容が書かれていた。大使館職員が見守る中、氏は私服警官に車に押し込まれ、警察署に連行された。
裁判所は2008年4月2日、オーンタン氏に対し、刑法第124条a項に基づく反乱扇動の罪で終身刑を宣告した。氏は脳マラリアをわずらっているが、刑務所当局と家族による治療を一切拒否している。娘がザガイン管区のフカムチ刑務所でなんとか面会することができた際にも、薬は一切飲まないと話していた。
国民を代弁する政権を発足させよ
国民の要求を聞き、それに従って行動せよ
国軍支配をただちに終結させよ
拒否権行使の中国とロシアはくたばれ!
―オーンタン氏。ラングーンの米国大使館前で掲げた複数のプラカードに書かれたスローガンの一部。彼はこの直後に私服警官に逮捕された。(2007年8月23日)
弁護士
ビルマ国内の平和的な政治活動家に対する、軍政の大規模な一斉取締りは新たな展開を見せている。弁護士が新たな標的となりつつある。2008年10月、裁判官は、ソーチョーチョーミン氏とニーニートゥエ氏を、依頼人が裁判官に背を向けた際に、向き直るよう指示しようとしなかったとして、法廷侮辱罪で起訴。11人のNLD活動家(「国民民主連盟の活動家」の項を参照)の弁護団に属していた2人には6ヵ月の刑が宣告された。後日、さらに2人の弁護士(アウンテイン氏、キンマウンシェイン氏)が、審理が不公平であるため、自らの職務を適切に遂行できないとして弁護人の辞任を申し出た。裁判官は2人を法廷侮辱罪で起訴し、4カ月から6カ月の刑を宣告した。
ソーチョーチョーミン氏は起訴内容を事前に察知して地下に潜行し、2008年12月中旬にタイに逃れた。ニーニートゥエ氏は2009年4月に刑務所から釈放された。
2009年1月下旬に、軍事政権はNLD活動家の弁護をする弁護士6人に逮捕状を出した。現在11人の弁護士が、依頼者を助けたことにより投獄されている。
ビルマ人の人名について
ビルマ人の人名はビルマ語を知らないと発音が難しいが、名前自体はわかりやすい。ビルマ人の名前には姓がないのだが、両親の名前の一部をもらう場合もある。例えば、ノーベル平和賞受賞者アウンサンスーチー氏の父親は、1940年代のビルマ独立運動の英雄アウンサン将軍で、スーチー氏は父親の名前をもらっている。
ビルマでは通称やペンネームがよく使われる。このため自分が知っているはずの人物が実際には別人である場合もある。例えば、有名なお笑いタレント・喜劇俳優のザーガナ氏だが、これは「ペンチ」または「ピンセット」という意味の芸名で、本名はマウントゥラだ。氏は元々歯医者だったので、喜劇俳優としてステージに上がるのにふさわしい芸名をつけた。仏教僧や尼僧は多くの場合パーリ語に基づく法名を持っており、サンガ内や在家信者からはこの名で呼ばれる。ただし家族は出家者を俗名で呼ぶ。
ビルマ語には社会的地位に基づく敬称があり、名前の前につける。「ウー」は「おじさん」の意味で、年配者や有名人、尊敬に値する地位にいる人に対して用いられる。また「ドー」は「おばさん」の意味だ。アウンサンスーチー氏は「ドー・スー」と呼ばれることも多い。「マウン」は「お兄さん」、「マー」は「お姉さん」を指し、例えば「マー・スースーヌウェ」のように用いる。なお「コー」は「弟」を指す。なお本報告書の日本語訳では「氏」で統一した。
国際社会にできること
国際的な圧力は政治囚の釈放を実現する上で大きな役割を果たしうる。ビルマの関係諸国政府が、人権保護のため、また不当に拘束されている人権活動家やジャーナリスト、活動家の釈放を求めるために、自らの影響力を行使することはきわめて重要だ。関係国政府や地域機構、国際機関は、ビルマ政府に対して全政治囚の無条件即時釈放を強く働きかけるべきだ。外国政府高官がビルマを訪れる際には、政治活動家との刑務所内での個別面談を強く要求し、活動家たちの意見を聞き、その勇敢で意義深い活動に支持を表明すべきである。
ビルマ政府は、市民社会が活動するのを許容して、人権へのコミットメントを示す必要がある。関係国政府や地域機構、国際機関は、ビルマ政府との間でサイクロン後の救援活動、人道援助、2010年総選挙に至る政治問題の進展状況、または人権一般に関する対話を追求するにあたり、市民活動家、特にビルマ国内の人権活動家と継続的な協議を行った上で、ビルマ政府の政策がこうした人々の懸念を反映し、また解決するものになることを目指すべきだ。政治囚の釈放は、軍事政権の掲げる政治改革に関与する際の、前提条件となるべきである。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、政治囚の釈放が、ビルマに対する対象限定型の金融制裁措置の解除のベンチマークとなるべきだと強く考える。中国やロシア、インド、東南アジア諸国など軍政への関与を続ける各国へのはたらきかけは、制裁措置を有効に機能させる上でたいへん重要である。
中国やロシア、インド、東南アジア諸国は、ビルマ軍事政権に対し、真の政治改革プロセスは、社会のより広範な層からの積極的な参加が不可欠であることを明確に伝えるべきだ。ビルマ軍政幹部は国民のあらゆる層の活動を押さえ込もうとしている。これまでも人権活動家、独立系ジャーナリスト、仏教僧、人道支援活動家、反軍事体制勢力のメンバーなどが対象となってきた。ビルマと関与する国家は、二国間対話にしろ、貿易、エネルギー資源の契約にしろ、必ず、交渉の重要な要素のひとつとして、政治囚の釈放を要求するべきだ。
皆さんにできること
ヒューマン・ライツ・ウォッチはビルマ国内の刑務所にいる何千人もの政治活動家のことを決して忘れません。また皆さんにもそうあってほしいと願っています。勇敢にも意思を貫いたこうした人たちに注目し続けることで、世界中の人々が彼らの釈放に一役買うことができるのです。皆さんが自分の住む国でビルマの情報を広めることは、政治家が情報を知り、正しい行動をとるきっかけとなります。
以下のような方法があると思います。
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自分が支援する政治囚を一人決めて、ビルマで投獄されている人々を個人として意識してみてはどうでしょうか。たとえば次のような形です。
- 労働組合に対して、ビルマ国内の活動家、とくにスースーヌウェ氏のような労働運動家が置かれている過酷な状況を多くの人に知らせるような活動も行なってほしいと要請する。
- お笑いタレントやコメディ俳優に対して、ビルマで投獄されているお笑い芸人のザーガナ氏を称えるジョークやコントを作ってくださいと要請する。
- 宗教団体に対して、宗教儀式や行事などで、ビルマ国内で投獄されているガンビラ師のような僧侶や尼僧の窮状について触れるよう要請する。
- 高校や大学の学生団体に対して、ビルマの政治囚、とくにミンコーナインのような元学生指導者についての関心を広めるイベントを企画してくださいと要請する。
- 地方議員や国会議員に政治囚の現状を知らせましょう。
- ビルマ軍政を支持する中国やロシア、インドなどの政府当局者や主要な政治家に対し、手紙や電子メール、嘆願書を書きましょう。ビルマの全政治囚の釈放を求めるよう訴えましょう。
- 潘基文国連事務総長に手紙を送り、ビルマ軍政に対して、全政治囚を釈放するよう強く働きかけてほしい、と求めましょう。
- 新聞のオピニオン欄に投稿し、ビルマの政治囚の窮状を訴えましょう。
- また地元のラジオ局に対して、ザーガナ氏やスースーヌウェ氏、ガンビラ師、ミンコーナイン氏ら政治囚一人ひとりの過酷な現状を取り上げてください、と求めましょう。
- 情報を広めることで、ビルマの人権状況の改善をサポートしましょう。AVAAZ、Twitter、Facebookなどのオンライン・ネットワーキング・メディアを使い、ネットワークを広げ、インターネットを使ったアクティヴィズムを利用してみましょう。
- ビルマで活動する企業に手紙を書き、「ビルマの全政治囚の釈放と非公開で不公平な裁判の終結」を求めてSPDC=国家平和発展評議会にロビーイングしてほしい、と求めましょう。
- 地元のイベントなどでビ、ルマには表現の自由がないことを取り上げ、平和的な活動を理由に投獄されている人々の窮状を他の人にも知ってもらいましょう。
- ビルマのことがわかる冊子を配りましょう(皆さんがお読みになっているこの冊子のようなものです)
- ビルマ政治囚支援協会(AAPPB)など、政治囚の家族を支援する組織に寄付をし、こうした人々を支援しましょう。AAPPBなどの組織は数千人に食料や住宅、教育の機会を提供しています。ヒューマン・ライツ・ウォッチに寄付していただければ、ビルマの政治囚の窮状についての調査を資金面から援助することになります。
- そしてもちろん欠かせないことは、皆さん自身が情報を知ることです!そして、周りの人たち(ほんの数人でも構いません)にも伝えてください。
こうした活動はシンプルですが大きな力になります。だからこそビルマでは一般には禁じられているのです。この報告書に登場した人たちは、母国のためを思って、ほんのささいなことをしようとしただけで投獄されているのです。
詳細については以下をご覧ください。
http://www.hrw.org/en/free-burmas-prisoners
謝辞
本報告書の執筆にはアジア局研究員ディヴィット・マティソンがあたった。編集は、ブラッド・アダムズ(アジア局長)、エレイン・ピアソン(同局長代理)、ジェームズ・ロス(法律・政策ディレクター)、ジョセフ・サンダース(企画室副ディレクター)が行った。制作支援は、ドミニク・チャンブレス(アジア局コンサルタント)、グレース・チョイ(出版ディレクター)、フィッツロイ・ヘプキンス(制作マネージャー)が提供した。デザインについてはアナ・ロプリオル(クリエイティブ・ディレクター)が支援した。ヒューマン・ライツ・ウォッチは政治囚支援協会とビルマ国内の政治囚の友人や親族に感謝する。こうした人びとの協力があったからこそ、本報告書の刊行は可能となった。
[1] 78歳のウィンティン氏は、その後、2008年9月に釈放された。